2011年7月26日火曜日

らしさ

僕は、
アートディレクションやデザインのような商いを続けておりますが、
それらの仕事は、
「〜らしさ」と「〜らしくなさ」のコントロールのような気がしている。

短絡的には「意外性の使い方」と思いがちだが、
それとは全く違う。

「〜らしさ」と「〜らしくなさ」は相反する物ではなく、
共存しないと新しいステージは訪れない。

例えば、
「この写真集は和風だから、表紙のタイトルは
どう考えても明朝体がしっくりくるよね!(らしさ)」
という判断は世間が認識しているテイストをリピートしていることになるから、
基本的には好きじゃない。

そこには当然、安心感のようなものが芽生えるので、良い面もある。
その安心感をすんなりと芽生えさせるためには、
実はレベルの高い見せ方が要求される。

「らしさ」という山の頂上にむかって突き進んでいるだけでは、
次のステージは訪れない。
というのが持論です。

先述の例えの場合、
単純にゴシックにすれば良いのかというと、
表面的には「らしさ」と逆にいっているのだが、それは違う。

次のステージへ登るために大切なのは、
「らしくないらしさ」を読み解くことだと思う。

僕が思う理想の制作スキームは、
「らしさ」を見極めることから始めるが、
それは「らしくなさ」を見つけるための行為であり、
その後、「らしくなさ」という山に登り始めます。
「らしくなさ」という山の頂上から、
「らしさ」の頂上へ吊り橋を架ける方法を探します。

その結果としてのゴシックであれば、
次のステージに上がったゴシックになっていると思う。
そこには、ステレオタイプの安心感は無いが、
驚きの中に、安心感を植え付けているはずなのです。

*****

自分自身にも「らしさ」を培っていかなくては、、、と思う。
そうすれば、自分の表現の中で「らしくなさ」の相乗効果を作り出せるから。

2011年7月7日木曜日

コビリツイタ・イメージ

シェイクスピア作品でもっともえげつない作品は、
おそらく『タイタス・アンドロニカス』だと思う。

ローマ帝国の武将タイタスに破れたゴート族の女王タモーラが
言葉に表現できないほどの残虐な復讐をする話です。
タイタスの娘ラヴィニアは夫を殺され、さらに強姦され、
さらに口封じのために舌を切られ、おまけに手も切られる。
そして極めつけが、手を切ったあとに、木の枝をくくり付けるんですyo!

映画でそのシーンを見たときに、
両手首が木の枝になって絶望する姿が目に焼き付いてしまって、、、。
(画像が見つからないので、ここに掲載できないのですが)

そのシーンは、凄く残酷な描写なのですが、とてつもなく美しいのです。
その美しさが手伝って、一方的に残酷さが僕の毛穴から入ってくるような、
無抵抗感に支配されました。
そして気持ち悪くなって吐きました。(お食事中の方すいません)

そのビジュアルがずっと頭から離れずにいます。
ちょっとしたトリガーによって、それを思い出してしまう。
辛いんです。けっこう。

たとえば、こいつです。コブラさん。
これを見ただけでも、ラヴィニアを思い出してしまうんです。
コブラ自体はとても好きなんですけどね。とくにラグボールのシリーズは。



そして、こいつも。
なんかむかつく。


そしてウルヴァリンも。



コブラもフック船長もウルヴァリンも、手に何か付いてるから、
原因が分かり易いのですが、
最近は、そのことに限らずに、なんか変なもんが付いてるだけでも、
ラヴィニアを思い出しちゃうんです。

こんなのでもラヴィニア。


そしてこんなのでも。
これハンズフリーフォン?


さらに、人間じゃなくても、本来の姿に異物が融合していると、
ラヴィニアを思い出しちゃう。

例えばこんなの。


さらに世界遺産でも。


あと、最近の女子がやってるネイルアートも、かるくラヴィニアなんです。
もうトラウマですね。

極めつけはこれ。自爪なんだけどね。
うううっ、、吐きそう。


生物はきっと、素体がイチバン美しいと思う。
(この発言は、いろいろな問題を誘発しますが、見過ごして下さいませ。)

ちょっと、意味が違うけど、
工業製品とかも出荷されたときのままが美しい気がする。
改造車とか、携帯のシールカスタマイズとか好きじゃないです。

でも、生物と異物の融合であっても、ラヴィニアの記憶は出てこなくて、
なおかつ僕の中で永遠の美として記憶されており、
ガンダムとともに私をデザイン業界へと駆り立てた写真があります。

これです。

これを初めて見たときはかなり若かった。
ショックでした。素敵すぎて。
そのころは、こういう形をしている義足があることを知らなかった。
美しい。
足の形を模して、足があるかのようにするための義足ではない。
そんなことはもうどうでも良くて、
膝から下が無い人がいかに速く走ることが出来るかということを
追求したフォルムです。
パワーアップアイテムです。

障害に向き合うスタンスを真剣に考えた瞬間でした。

僕の母が、第1級の障害者認定を受けている人なので、
人生観ごと変わったのです。もちろん良い方向にです。

この写真の女性は、我々よりも進化する可能性を秘めていると感じた。
僕にそう思わせたこのデザインに惚れた。

そして何よりも、この写真が美しいことに感動しました。
完璧でセクシーな上半身、鍛え抜かれたヒップラインと太もも。
生命力は僕よりも確実に上です。
ナノナノグラフィックスを立ち上げてからずっと、
会議室にこのコピーを貼っていたくらい好きですし、
もはや自分のスローガンのような存在になっています。
方向性に迷ったときに、幾度となく大切なことを気付かせてくれました。

でも今は、卒業しています。この写真を。
引っ越しを機に貼るのはやめました。いろいろ僕も成長したからね。