2011年4月30日土曜日

スタジオボイス+ニッケイビーピー+ナノナノグラフィックス・アット・オンサンデーズ

人生初のトークショーに出演させていただきました。
以前ご紹介した、架空の1日を再構成した写真集
『写真本 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24』
(シャシンボン・ニジュウヨンエイチ)
 の出版記念写真展の企画です。

司会:加藤陽之さん(STUDIOVOICE編集長)
出演:この本の企画編集である、安藤夏樹さん(日経BPコンサルティング)
アートディレクション担当の、おおうちおさむ(ナノナノグラフィックス)

このほかにも、参加写真家さんのトークショーが4回あるのですが、
制作側の人間だけでおこなう珍しい企画です。
安藤さんは、その4回全ての司会をこなします。マルチな方です。
御正室はガンダム好きでした。

向って右から、加藤さん、安藤さん、おおうち
白熱
オンサンデーズの草野さんも白熱
終了後も白熱。手前は日経BPのアイドル、ナミコちゃんとマサエちゃん。
イーストさんたち。ヒラーキーさん後ろ向きご容赦。

とても内容の濃いトークになりました。
加藤さんはSTUDIOVOICEの「紙」での復刊を目指し、
かっこいいスタンスで試行錯誤中です。

最近は、出版業界の人が集まると、
紙と電子メディアの将来のことを必ず話す風潮。
両者は比較する事自体がナンセンスだと思うのですが、
加藤さんがおっしゃっていたことが、妙に心に響きました。
誤解覚悟で要約すると、

「戻る場所としての紙媒体を、残しておく必要がある」
ということです。

いろんなことの答えがこの言葉に集約されているような気がします。
皆が共感できることではないと思いますが、
私は強く感銘を受けました。


話は変わりますが、
今年の1月に、
全日本卒業アルバム印刷組合というところから、お仕事の依頼を受けました。

卒業アルバム業界にも電子化の波が押し寄せていて、
紙で作る高価な本に対する理解が減っているとのこと。
紙で作る場合、掲載写真数が限られるので、
「うちの息子の写真が少ないじゃないか(怒)」
といったことがおこります。
電子メディアの場合は、大量の写真データを提供できるメリットがあり、
「うちの息子の写真がたくさんのってて幸せざますう。」
ということになるのですが
そこには秀逸な編集は存在しません。

全日本卒業アルバム印刷組合としては、電子メディアを否定はしないが、
紙の本として残す価値をもっと訴求できたらいいなという思いがあり、
わたしにご相談下さりました。
今年度に配る予定の何十万冊もの卒業アルバムに、
そのことを訴求する小冊子をはさみ込みたいのだそうです。

紙であることの良さ、、、、。
そこで、こんなことを提案しました。

見開き単位で進行する冊子とし、
右ページに本(卒業アルバム)の写真。左ページに人の歴史を感じさせる写真。
その関係を崩さずに数十見開きが続きます。
ページを追うごとに、
右の本はだんだんぼろぼろになって行くのですが、
左の人の歴史写真は、卒業し大人になり、社会的地位を築き、
結婚して子供ができる、という具合に、成長して行きます。
そして生まれた子供が小学校へ入学して終わります。
また素晴らしい人生が始まるのです。

タイトルは「卒業アルバムと一緒に年を取るということ」です。

組合のみなさんに大変気に入っていただきました。
くどくどと思いを語る冊子よりも、
印象で理解してもらえるようにした狙いが、伝わりました。


表紙です。
こんな見開きが続きます。右の本はどんどんボロくなっていきます。

3.11のときに、卒業アルバムは大量に流されてしまいました。
生徒さんに渡す前のものがほとんどで、
ほんとうに悲しい。
学生さんだけでなく、人々の大切な思い出としてのアルバムも沢山失われました。
この小冊子もストップです。

全日本卒業アルバム印刷組合では、
なんとか卒業アルバムの復刻を作れないかと検討中です。
もちろん昔の物も。
震災被害に遭う前の美しい町並み、自然、校舎、生活、
それらが写っているアルバム。
それらは二度と撮影できない風景となってしまいました。

「シャシンボン・ニジュウヨンエイチ」のコンセプトは、
「東京の2010年の記憶と記録」。
今回の震災と、 全日本卒業アルバム印刷組合の仕事に触れて、
また違う意味での 「シャシンボン・ニジュウヨンエイチ」
の有り様が見えてきた気がします。

「シャシンボン・ニジュウヨンエイチ」の第二弾を実現したいです。

2011年4月29日金曜日

千足伸行『交響する美術』

千足伸行
1940年、東京生まれ。東京大学文学部卒。
TBS(東京放送)を経て国立西洋美術館に勤務。
1970~72年、西ドイツ(当時)政府給費留学生としてドイツに留学。
ミュンヘン大学で主にドイツ・ルネサンス美術を学ぶ。
帰国後、西洋美術館に復帰。
1979年、同館を辞し、成城大学文芸学部に勤務、
2011年3月まで、同大学文芸学部教授。
専門分野はヨーロッパの近代美術、とりわけ世紀末を中心とする各国の美術。
また、西洋美術関係の展覧会の企画、監修にも多数携わっている。

こんな素晴らしい方の成城大学教授退官記念出版『交響する美術』(小学館)の
装丁の依頼をいただきました。

とても有名な方で、西洋美術界への貢献度は計り知れません。

どのような装丁にするか、、、、。
全然悩みませんでした。

本文の内容は、20本のテキストは過去の140余の展覧会カタログに執筆したものから
選ばれている。もちろん今回のためにリライトをしています。
この本文自体が「交響」しているので、
装丁は、本文の「交響」をグラフィックで表そうと思いました。
手法は違えど、表すものは中と外で同じにしたかった。

結果、このようなデザインになりました。

外箱 背
外箱 表1
カバー 背
カバー 表1

表紙 背
表紙 表1

みなさんのご意見は様々だと思いますが、
自分としては、かなり満足できる仕上りです。

浪人中、365日、毎日デッサンと幾何構成を繰り返していたときに
培ったものが滲み出ている気がします。
体の奥深くに染み込んでいる造形バランスを、
迷うこと無く発揮できたので気持ちいいです。
若い頃に手に入れたものは、去っていかないのですね。
自然体で呼吸すると、私のテイストはこんな感じで現れるのだということを、
認識しました。

普段の仕事はなかなかそれができない。
もちろんそれは悪いことではなく、日々の成長を与えてくれます。
いずれ、それも自然体の呼吸に取り入れていければ幸せです。

この案件を私に依頼して下さり、デザインに多大な理解を示していただいた
小学館の清水芳郎さんに感謝です。

8,500円と高価な本ですが、素晴らしい内容です。
是非、書店でお手に取ってみて下さい。

2011年4月26日火曜日

向島葡萄亭

良いお店のお仕事をさせていただいたので、
ここで宣伝させていただきます。

今月末に、「向島葡萄亭」という店がオープンします。

老舗の味噌問屋だった「遠藤利三郎商店」が、
押上でワインに拘ったビストロを始めてから数年がたち、
人気店として不動の地位を築いてきました。
オーナーの遠藤誠さんという方は、
ワインスクールを自ら作ったしまう程のワイン博士です。
さらに、クリエイティブに大きな理解をくださる方で、
とても貴重な存在です。

そして2店舗目として、向島にアッパーグレード店を出します。
それが「向島葡萄亭」です。
当然、ワインに拘ったお店です。
そのグラフィックデザインを弊社で手がけさせていただきました。


これがメインロゴマーク。


そしてこれが桜橋にちなんで、
ワイングラスで作った桜の花。

インテリアデザインは橋本夕紀夫さん。

ガラリで囲まれた行灯のような外観



向島と言えば、芸者さんが日本一多く在籍している町ですね。
そのイメージを踏まえて、なかなか艶のある店内です。
2階は斎藤上太郎さんの織物を天井にあしらった、真っ赤な空間。

これが2階の天井

2階がかなりコンセプチュアルなので、
1階の天井にも、何か「日本の美」的な施しを考えてほしいと頼まれました。
1階は木の質感を生かした、焦げ茶色な空間。
天井は升目になっている。
意味も無く日本画のようなビジュアルをあしらってもつまらないので、
以前、作品集を手がけたことがある『江戸の判じ絵』を使うことにしました。
たばこと塩の博物館の岩崎先生にご協力いただき、
面白い天井画ができました。

こんな感じです。


『江戸の判じ絵』ってすごいんです。
ダジャレの天才。親父ギャグづくしです。

たとえばこれ、
肘に木がはえているから「ひじき」です。




つぎにこれは、ダクトの蓋に貼るために細く切り刻んで見づらいのですが、
戸の影に隠れているから「トカゲ」です。



さいごにちょっと難解なやつをご紹介。
上半分の鹿、つまり「し」
そこに矢が刺さっているから「しゃ」
下の方に毛があるので全部合わせて「しゃけ」(鮭)。



すごすぎです。

ダジャレのセンスは現代と何一つ変わらないのです。
すごいぞ日本人。

ちなみにメニューフォルダも緞子張りの豪華仕様。



向島葡萄亭
東京都墨田区向島5-27-10
tel:03-6658-5171
ぜひ一度、足を運んでみてください。本当におすすめです。
料理はフレンチベースの創作系。かなり美味しいです。

2011年4月24日日曜日

ブルージーンズもメモリーするのだ

おそれずに、短絡的な見解を書いてみようかな、、、と思います。


脳みそを持つ生物は、記憶ができる。
脳みそを持たない自然物は、記憶をするのだろうか?
(今回は、「記憶」をハートフルな「思い出」的なことと定義します。)

たぶん、石には記憶能力があると思う。
また、それを伝える力もあると思います。
「石=意志」この二つが同音なのも、なにかを勘ぐらせる。

多くの公共建築物には、石を使ったオブジェが置かれている場合が多い。
大使館、美術館、公民館、駅、百貨店、劇場など、
必ずと言っていい程、ある。
素敵だからそうするのだろうけど、それだけの理由では納得できない。
数があまりにも多い。

その多くは、全国各地から取り寄せた名石を使っている。
いずれも東京には無い大自然の恵みをいっぱい記憶した石たちです。
きっと、その素敵な記憶を伝える(流布する)能力があるがために、
その場を素敵空間に変えてしまうのだと思う。

以前、イサムノグチ庭園美術館の仕事をしたことがあり、
何度か高松を訪れた。
言わずと知れた、巨匠イサムノグチの作品に触れ、
受け止めきれない感動を覚えたものです。

イサム・ノグチ作 エナジーヴォイド


でも、私がイサムノグチ(石彫に限る)よりも興味を持ったのは、

イサムノグチの制作パートナーをずっと努めてきた彫刻家、
和泉正敏さんの作品です。

前述のように、石は記憶を持っていると思います。
この世に誕生してから、天変地異的なことを沢山経験し、
高松の石切場に眠っていたそれらを料理して、
自分の意志を融合させているのがイサムノグチ。
石は、長くて深い記憶が根底にあるからこそ、
削って、磨いて、うねらせて、着色されても、
作為的になりすぎない。そんな素材だと思います。

何十年も一緒に制作をしてきた和泉さんの作品は、
たぶんイサムノグチとは違う方向を追い求めているのではなかろうか?
間近で彼の創作に接してきたからこその志だと思う。

和泉さんの展覧会図録を作るために、作品を撮影させていただきながら、
ほんの少しですが、作品作りのことをご本人にお聞きしたことがある。

石には、芯(私の解釈では記憶)がある。
それを見つけるまでが創作活動。
あとはそれに従って割るだけ。
「石は磨けば磨く程弱くなり、叩けば叩くほど石でなくなってしまう。」
ということだそうです。
人間だって、記憶を書き換えられてしまったら、別人になってしまう。
ありのままの人生をどう生かすかが、生きた証になる。





この写真はその展覧会図録のページ。
私が好きな2作品です。すごく好きです。
さきほどの和泉さんの言葉が見事に昇華されている作品だと思います。
最小限の行為だけで作品に仕上げています。
でも、この石に出会って、対話して、何を施すかを決めるまでに
何年もかかっていることと思います。

誤解を覚悟で言うと、
イサムノグチと和泉正敏には、
「創る」と「創らない」の差がある。

世の中を見渡すと、著名な二人組には、
「理論派(創る)」と「天然派(創らない)」で構成されている場合が多い。
例えば、
「相棒の右京さんと亀山」とか「古畑任三郎と今泉君」とか「室井さんと青島」とか、
あっ刑事物ばっかりになっちゃった。
そうそう、お笑いコンビはほとんどがそのパターンですよね。
最近では「仮面ライダーW」も典型。

何が言いたいかというと、
自己完結できる人達は、自然界と繋がるルートを確保しているということ。
自分の中だけではアースできないので、
天然型人間の自然回帰能力を取り入れているのかな、と思う。

イサムノグチが自己完結できる人間とは思わないが、
かなりロジックがしっかりした人なので、
和泉さんがアースになっていた可能性は大。

都会に乱立している石のオブジェは、
アースになっていると思う。

石は置かれた場所の残留思念を記憶すると言われている。
だからむやみに持ち帰ると、その残留思念によって不吉なことが起きたり
するのだそうです。
その石が落ちていた場所が殺人現場だったかもしれないですものね。

石はお墓に使いますね。
お墓には沢山人が訪れますね。
そうしているうちに故人を偲ぶ思いが墓石に記憶されるんですね。
それがアースされて、故人に流れ込む。
そのための媒介なのだと思います。

イサムノグチのお墓は、
それを効率よくこなせるようにできている気がします。
すっごく素敵なお墓でした。

イサム・ノグチのお墓

「イサム・ノグチ」と「オサム・オオウチ」
響きが似ていません?

2011年4月22日金曜日

広い意味で「ポコペン」

みなさん、「ポコペン」って遊び、知ってますか?
きっとこれは愚問なのだと思います。
ほとんどの人が経験しているメジャーな遊びのはず。

そのルールは地域によってかなり異なり、
ちょっと調べただけでも 、私の地域と同じルールが見つかりませんでした。
簡単に言うと、缶蹴り+鬼ごっこのようなものが、
いろんな形に変化していった遊びです。

一番多いスタイルは、鬼が壁に向って目を閉じて、
その他大勢がかわりばんこに背中を叩く。
ポコペンだーれがつっついた」って叫びながら。
鬼は最後に叩いた人の名前を当てる。といったものだそうです。

でも私の地域では、完全に缶蹴りと同意でした。
手頃な缶が見つからないときに、木、壁、柵、石、公園の遊具、
などを缶代わりにします。
それらをポコペンと名付けます。「今日はこれがポコペンな!」 って感じで。
蹴っても飛ばない物が多いので、タッチすることで終了になる。
タッチするときにポコペンと叫んでました。

この私の地域タイプの「ポコペン」の考え方って、
なんだかすごい気がしてなりません。
ポコペンと名付けられた物は、従来の存在意義が剥奪されてしまいます。
大げさですけどね。
ポコペンになった時点で、木は木でなく、壁は壁でなく、石は石でない。
ポコペンは何にでも成れるし、逆に何でもポコペンになれる。
私の中ではポコペンって言葉は、汎用性が高いものの代名詞となり、
「ポコペン的」 という価値基準になっています。

映画『ブッシュマン』のコーラの瓶の有り様は、ポコペン的ですね。
横を叩けば打楽器になり、 
ビンの口に息を吹きかけれけば笛になり、 
水筒になることはもちろん、 
動物の皮をなめすこともできる。   

ポコペンを無理矢理アートと結びつけてみると、
マルセル・デュシャンが思い浮かぶ。
ダダイズム(反芸術活動)の代表的アーティスト。
特に有名なのがこれ。

便器をポコペンしちゃった訳ですね。
本来の意味は剥奪されました。
私の中では、
「ダダイズム」=「意味の剥奪」だったりします。
(いろいろクレームが出そうな発言ですが、、、。)

ダダイズムと言えば、ウルトラマンの怪獣に「ダダ」というのがいる。

  
かなりヤバいルックス。こいつらの特性は、
「3種類の顔を持ち、それぞれを使い分けることが可能。
壁を通り抜ける、姿を消す、人間に乗り移る、テレポートする等の
様々な超能力を持つ。」
だそうで、 ポコペンに通じる何かを感じます。
ダダイズムに通じる何かも感じます。
見た目だけでも十分に反芸術活動的。
ダダイズムから名前を取ったのだと信じたいです。

それにしても、ダダって、マイケルジャクソンと五輪真弓にそっくりですね。



これも、汎用性の一種か?




2011年4月18日月曜日

履歴ってステキ(長文御免)

これからのクリエイティブって難しい。
やみくもに新しいものを生み出して行くのは、
なんだか違う気がする。

もちろん、新しい物を生み続けて、
新体験を与えていくのは可能なのだと思うのだけど、、、。
そこにどれだけの喜びや幸福があるのだろうかと、考えたりする。

ふと、逆を考えてみる。
『新しくないことを創造して、旧体験的な面白さを生み出す』
と言ってみたとき、それってどういう事だろう?
と悩む。

そんな事を数年間考え続けていて、
なんとなく、その糸口が「履歴」にあるんじゃないかと思うようになりました。
「履歴」は、けっこうなエンターテイメントだと思うのです。
例えば身近なところで言うと、
WEB閲覧の履歴、通話記録、カーナビの記録、などは
行動と興味の変遷をビジュアル化してくれます。
あの日、自分は何を考えていたのかを思い出せます。それは結構面白い。

「経年変化」という言葉がある。
木や革など、時が経てば使い方に左右された変色や変質をする。
世界に一つの物となる。
これも「履歴」と呼べるし、それが表現になる例です。

今度は、その「木」に注目してみると、
その美しさを決定づける木目が「履歴」なのです。
その模様は成長過程の「履歴」の集大成です。

この写真はTONERICOの実験スツール。
16種類のスツールを、板目と柾目で2種づつ作っている。

madame FIGARO.jpより

左の上下2種が板目、右の上下2種が柾目。
木目の使い方を変える事で、表情や強度が変わる。
木目のことは昔から知っている。板目と柾目がある事も知っている。
でも、同じ形の椅子に、使い分けた物を比較した事は無い。
それを見せてくれている。
これこそが
『新しくないことを創造して、旧体験的な面白さを生み出す』ことなのだと
思います。

TONERICOは、私の自宅をデザインして下さった友人で、
弊社とほぼ同時期に会社を立ち上げました。いまやスターデザイナーの彼ら。
私とずいぶん差が付いてしまいました(悲)。

次は、デザインとかじゃない例。
UEFAが発表しているサッカーの試合の選手の行動マップ。


これは、先日のチャンピオンズリーグ、インテル対シャルケ04・セカンドレグでのマップ。
左が内田、右が長友。
ここから読み取れる事はたくさんある。これって、面白いですよね。
サッカー選手の動きをつなぎ合わせたら、
きっとこんな形になるだろうと想像してきたことを、
実際にビジュアルで見せてくれる。
これも、
『新しくないことを創造して、旧体験的な面白さを生み出す』ことなのだと
思います。


最後に、「履歴」を演出した秀作。
鷲尾和彦の写真集『極東ホテル』の装丁。
この写真集はよく見ると表紙が無いんです。書名・著者名は帯にだけ入っている。
そこで、背の付近をよく見てみると、以前は表紙が貼ってあったのだが、
何者かによって剥がされてしまったかのような糊のあとがある。


この写真でわかるかなあ?
本の装丁に、時間の経過を仕込んだドラマティックな傑作です。
もちろん、写真集の内容が素晴らしく、それとの相乗効果が条件ですが。
これも「履歴」と言える。
演出ですけど『新しくないことを創造して、旧体験的な面白さを生み出す』ことが
おこなわれています。

これから先の世界にふさわしい表現を考える事は大切だし楽しい。
小さな個人が考え出し、それがやがて大きな価値観になり、
次の次元の豊かさが訪れることを期待して、日々を過ごそうと思います。



●おまけの「履歴」。前述の表現の話とは全く関係ありません。

これが民主党政権の震災1ヶ月間の見事なまでの対応だ!w
(nikaidou.comより転載)

蓮舫、襟を立てる
蓮舫、スーパーを視察する
菅直人総理、原発を視察して東電の対応送らせる。
視察後、官邸に戻ってきた菅直人総理が周囲に「原発は爆発しないよ」と名言→原発爆発
菊田まきこ議員、ジャカルタで買い物、スパ、エステ三昧
政府、被災地向け電池190万個を送らず
菅直人総理、震災復興という最も大事な仕事を野党に丸投げ
政府、原発周辺の対応が10キロ→20キロ→20~30キロと後手後手で住民混乱
政府、原発事故初期段階でのアメリカの支援を拒否→原発爆発
政府、アメリカに続き、フランスからのロボット提供支援も拒否
鳩山由紀夫「海から直接長いホースで海水を原発にかけるべき」と提言
仙谷由人を官房副長官、辻元清美を総理大臣補佐官に任命
姫井由美子議員、自身のブログで非常食や非常用毛布をニコニコ顔で紹介
政府、計画停電の内容を東電に丸投げ、原発の放水方法も現場に丸投げ。
菅直人総理「私は原子力に強いんだ」と発言
菅直人総理「東日本がつぶれることも想定しないといけない」と発言
菅直人総理、自衛隊の派遣人数2万人→5万人→10万人と思いつきで増やし、現場大混乱
蓮舫、計画停電の混乱について「初めてのことなので、、、」と発言
岩手が地元の小沢、衆院本会議を欠席。一週間経ってようやくコメント出す。
災害対策本部、一週間経っても具体案出せず
安住淳国対委員長『学校のプールにガソリンを貯蔵出来ないか」と提案
海江田万里経産相、消防隊員に「速やかにやらなければ処分する」と恫喝し、放水車壊す
経済産業副大臣「最悪の事態は、神のみぞ知るでございます」と発言
北沢俊美防衛相「グローバルホークの映像公開しない」
仙谷が、自民党に谷垣氏を総理に、自身を副総理にして大連立を提案
菅直人総理、初めての被災地視察で被災者に「物資が届かない状況はどうなってますか?」と質問
菅直人総理、児童の大半が亡くなった小学校を視察し、ランドセルを見て、「なんとか直人が送ったのかと思った」と冗談をかます。
政府、世界170の国と地域から支援物資が集まるも、そのうち30カ国しか受け付けず、残りは全て拒否か無回答
菅直人総理「放置したら原子炉が溶解し、アメリカが(原発を)占領しに来るぞ」と周囲に漏らす
政府、気象庁の「放射性物質拡散予測」を非公開にしていた
菅直人総理、「第一義的には東電の責任」と発言
枝野幸男官房長官、家族をシンガポールへ逃がす

2011年4月15日金曜日

ギシキテキ

イタコって、いい動きで踊る。
魂を憑依させるために踊る。
黄泉の国との契約のための儀式なのか?

ぼくは昔から「ヴァイオリン」の演奏を見るたびに、
これって演奏じゃないな。
などと思っていた。

ギター系、ドラム系、金管系、
たいていの楽器はそう思わない。
奏者の動きは、その「音」を発するための理にかなっている。

でも「ヴァオリン」は違うんです。
チェロ、ヴィオラ、コントラバスもそうかというと、
そうだけど、、、そうではない。
やはり「ヴァイオリン」だけ違う。
その音を出すための動きに見えない。
踊っている。

どうみても、イタコのように、
美しい音色を「天界」から降臨させるための儀式に見える。
おそらく、叩いたり、弾いたり、吹いたりするのとは
違うからなのだと思うのだが、、、?。

長く響かせるときも、ヴァイオリンはずっと擦っている。
フェードアウトも人為的。
通常の弦楽器は、弾いて放置。そして音は勝手にフェードアウトする。
つまり、自然現象に頼っている度合いが低いから、
表現力を問われる度合いが高くなり、
それを「天界」から認められたら、素敵な音が降ってくるのだと思う、、、?。
むむ、違う気もするなあ。

なんとなく、「テルミン」を演奏するときの、
奏者の動きと音色のギャップに似ている気もする。
あれこそ、カッコいい踊りに対する対価としての音色ですね、、、、?。

こんな事を考えながら、演奏を聴きに行くと、3倍増しで感動しますよ。

昨日、ある人からお借りした本が、東京文化会館のトートに入っていて、
学生時代、何度も室内楽を聴きに通った日々を思い出していたら、
この「ヴァイオリン」に対する気持ちが甦ってきたので、
ここに書いてみました。