僕の好きな映画ランキング1位は『The Piano』。
邦題は『ピアノ・レッスン』。
浜辺に置かれたピアノの姿にノックアウトされた。
湿気で音階がおかしくならないのかな?
砂埃が飛んできたら、鍵盤を押すときにジャシって言うだろうな?
などなどの庶民的な心配をする暇もなく、
このルックスの虜になった。
その場所にあるはずのないものが、存在するときの高揚感は、
未来的である。
これは、いつも僕が言っている「対比」とは少し違う。
対比は対峙する両者の違いを、より浮き彫りにすることで、
新たな表現を生むことですが、
この場合は、砂浜とピアノの対比ではなく、
ピアノという精密機器の禁止事項に対する誘惑のようなもなのかな。
17年程前のフジテレビに「JOCX-MIDNIGHT」という深夜枠があって、
いつも実験的な番組にチャレンジしていた。
『カルトQ』とか『カノッサの屈辱』とかがそうです。
その枠にはシーズンごとにキャッチフレーズが付くのですが、
その中に『音楽美学』というものがあった。
このときのスポット映像がすごくて、
ロープで縛られたピアノが森の空中に吊るされていて、
徐々にロープがほどけて落下するという、意味不明なものでした。
それが大好きでたまらなかった。
確実に使い方を間違っている、禁止事項の大様みたいな映像。
『The Piano』も『音楽美学』も、
ピアノという「意味の質量が大きな物体」がモチーフなので、
否応無しに物語性を放ってしまい、
面白さを刺激しているのだけれど、
禁止事項が生み出すエンターテイメント性に興味があるのです。
そもそも禁止されていることには、楽しそうなものが多い。
・電車の窓から顔や手を出してはいけません。
これって、
「顔や手をだしたらすっごく気持ち良くて楽しくて、
カナブンとか小鳥とかがもしかしたら触れてくるかもね。」って聞こえる。
・混ぜるな危険
これって、
「強力な2種類の洗剤どうしを混ぜ合わせたら、
この世の物とは思えないほど汚れが良く落ちる洗剤が完成してしまい、
お皿の絵柄まで落としちゃったりして、食器業界から総スカンをくらうからやめてね。」って聞こえる。
僕って頭がおかしいのかも、、、、。
*
僕の好きな映画ランキング第2位『Back to the Future 123』
(2位というのは嘘です。話の流れ的にそうしました。)
言わずと知れた傑作中の傑作です。
普通の人は1か2が好きなのですが、僕は3が大好きです。
当然、前作が面白いから3が面白い訳でして、単独で評価は出来ないのですが、
ものすごく好きなシーンがありまして、、、。
荒い写真で申し訳ないのですが、
デロリアンを馬に引かせているんです。
タイムマシンを馬にですyo。
このパラドクスが未来的でそそられます。
まさに「馬力」?
馬車の原点回帰ですね。
浜辺のピアノと同様に、
その場所にあるはずのないものが、存在するときの高揚感です。
これも「対比」とはちがうんですね。
禁止事項的ではあるかな?
この映画は123全て、現代へ帰るための努力の中に、
「その場所にあるはずのないものが、存在するときの高揚感」が必ずあるんですね。
僕の脳内フィルター越しに判断しているので、
積極的に解釈しがちなので共感を得られないかもしれませんが、
外人が箸を使っている姿を見るだけでも、
同じような高揚感を感じてしまい、未来的だとさえ思ってしまうのです。
(多分、ブレードランナーのデッカードが屋台で使っていたせいで、
そう思うようになった気がします。)

2012年5月5日土曜日
2011年12月27日火曜日
タイヒ・ト・リレキ
JRというアーティストの作品集を買った。
ずっと気になっていた人で、ようやく作品集に出会えた。
『WOMEN ARE HEROES』というプロジェクトを本にまとめたものです。
男性優位の社会で虐げられる女性達の現状を伝えるため、
女性達にインタビューとポートレート撮影を行い、
町の壁や屋根に巨大ポートレートを貼付けるプロジェクトを続けている。
そのメディアは列車のボディ、橋、自動車、道路、階段など多岐にわたる。
このプロジェクトは参加可能型であり、
女性はモデルを務め、子ども達はグラフィティの貼付けをして参加する。
スラム街や紛争地域などで活動する事で、
虐げられた人々の強いメッセージを伝えている。
この作品がわりと有名ですね。
初めて見たときにすごすぎて絶句しました。
スラムの屋根にポートレートを貼っています。
これなんかも最高にクール!
もうむちゃくちゃにすごい。
この作品集は、女性のインタビューと、もとになったポートレートと、
それを使った作品をセットで見る事ができる。
アートブックとしてもかなり面白い。
今までも沢山このようなメッセージアートはあった。
すごく気の利いたものや、考えさせる工夫が施されているもの、
なんだかんだでこのジャンルには豊富な表現がある。
でも、ろくでもないものばかりが目に付く。
例えば、最近ちょいちょい見かける動物愛護団体のヌードなんかは、
全然共感できないし魅力的じゃない。
裸なのでそりゃ目を引くけど、僕には露出狂にしか見えない。
僕は動物が大好きで、理不尽な扱いから救いたいと常に思っているけど、
闘牛のように歴史と文化のなかで育まれたことに対しては、意見を持たないようにしている。
そこには否定できない価値が詰っていて、
それはまぎれもなく人類の財産だからです。
(人の都合でものを語るなと言われると思うけど、、、)
この『WOMEN ARE HEROS』は「人」を救うために「人」が行っている抗議です。
「対象が動物じゃなくて人なら肯定するのか?」と言われそうですが、
「人」の場合は、「裸で寝転がって絵を描いてみました」的な
上から目線のユーモア(語弊があると思うけどあえて言います)が通用しないのです。
とてつもなくデリケートで、ひとつ間違えると、
守りたい対象を深く傷つけてしまう。
『WOMEN ARE HEROS』はすばらしい。
直接人が騒がず、無言のまま、アートのインパクトで感じさせる。
下手すると殺されかねない政府手つかずのヤバい地域にとけ込むところから始めて、
結果的に住人総出でアートを作り上げている。
大都市の路上で警察に許可をもらって裸で寝転がるのとは訳が違う。
しかも、見た事の無い光景を見せてくれる。
僕が大好きな『クリスト』のような感動がセットで付いてくる。
***
僕が考える「これからの表現」として大切な要素は、
以前このブログでも触れている「対比と履歴」。
闇雲に新しい物を生み出すのではなく、
「関係性」を見えるものに昇華していく行為が求められていると思う。
『WOMEN ARE HEROS』には、対比と履歴の両方がある。
ボロボロの町並みや、密林の集落に突然現れるモノクロの巨大な人の顔。
ものすごいミスマッチが、ものすごい衝撃的な対比構造を生んでいる。
しかも巨大なので、だれも無視できないルックスになっている。
そして、その作品はそのまま放置されて、自然に老朽化し、朽ち果てて行く。
こんな感じでぼろぼろになってもそのまま。
抗議なので、できるだけ長く掲示することが大切であり、また、
住人たちの手で作られているので、誰も不快に思っていない。
むしろ誇りに思っている。そのことも抗議の強さに繋がっている。
まさに「履歴」が表現に昇華されているのです。
とてもしっかり完成された抗議のスキームなのだと思ってしまう。
お買い求めはONSUNDAYSで。
ずっと気になっていた人で、ようやく作品集に出会えた。
『WOMEN ARE HEROES』というプロジェクトを本にまとめたものです。
![]() |
『WOMEN ARE HEROES』はこんな本です |
男性優位の社会で虐げられる女性達の現状を伝えるため、
女性達にインタビューとポートレート撮影を行い、
町の壁や屋根に巨大ポートレートを貼付けるプロジェクトを続けている。
そのメディアは列車のボディ、橋、自動車、道路、階段など多岐にわたる。
このプロジェクトは参加可能型であり、
女性はモデルを務め、子ども達はグラフィティの貼付けをして参加する。
スラム街や紛争地域などで活動する事で、
虐げられた人々の強いメッセージを伝えている。
この作品がわりと有名ですね。
初めて見たときにすごすぎて絶句しました。
スラムの屋根にポートレートを貼っています。
これなんかも最高にクール!
もうむちゃくちゃにすごい。
この作品集は、女性のインタビューと、もとになったポートレートと、
それを使った作品をセットで見る事ができる。
![]() |
インタビューとポートレート |
![]() |
そのポートレートをプールの底にはりつけた作品。 これもそうとうカッコいい。 |
今までも沢山このようなメッセージアートはあった。
すごく気の利いたものや、考えさせる工夫が施されているもの、
なんだかんだでこのジャンルには豊富な表現がある。
でも、ろくでもないものばかりが目に付く。
例えば、最近ちょいちょい見かける動物愛護団体のヌードなんかは、
全然共感できないし魅力的じゃない。
裸なのでそりゃ目を引くけど、僕には露出狂にしか見えない。
![]() |
闘牛反対!を裸で訴えてみました。 |
![]() |
裸で牛の形を作って抗議!血も出てるよ! |
闘牛のように歴史と文化のなかで育まれたことに対しては、意見を持たないようにしている。
そこには否定できない価値が詰っていて、
それはまぎれもなく人類の財産だからです。
(人の都合でものを語るなと言われると思うけど、、、)
この『WOMEN ARE HEROS』は「人」を救うために「人」が行っている抗議です。
「対象が動物じゃなくて人なら肯定するのか?」と言われそうですが、
「人」の場合は、「裸で寝転がって絵を描いてみました」的な
上から目線のユーモア(語弊があると思うけどあえて言います)が通用しないのです。
とてつもなくデリケートで、ひとつ間違えると、
守りたい対象を深く傷つけてしまう。
『WOMEN ARE HEROS』はすばらしい。
直接人が騒がず、無言のまま、アートのインパクトで感じさせる。
下手すると殺されかねない政府手つかずのヤバい地域にとけ込むところから始めて、
結果的に住人総出でアートを作り上げている。
大都市の路上で警察に許可をもらって裸で寝転がるのとは訳が違う。
しかも、見た事の無い光景を見せてくれる。
僕が大好きな『クリスト』のような感動がセットで付いてくる。
![]() |
クリスト『包まれたライヒスターグ』ベルリン |
僕が考える「これからの表現」として大切な要素は、
以前このブログでも触れている「対比と履歴」。
闇雲に新しい物を生み出すのではなく、
「関係性」を見えるものに昇華していく行為が求められていると思う。
『WOMEN ARE HEROS』には、対比と履歴の両方がある。
ボロボロの町並みや、密林の集落に突然現れるモノクロの巨大な人の顔。
ものすごいミスマッチが、ものすごい衝撃的な対比構造を生んでいる。
しかも巨大なので、だれも無視できないルックスになっている。
そして、その作品はそのまま放置されて、自然に老朽化し、朽ち果てて行く。
こんな感じでぼろぼろになってもそのまま。
抗議なので、できるだけ長く掲示することが大切であり、また、
住人たちの手で作られているので、誰も不快に思っていない。
むしろ誇りに思っている。そのことも抗議の強さに繋がっている。
まさに「履歴」が表現に昇華されているのです。
とてもしっかり完成された抗議のスキームなのだと思ってしまう。
作品集の表紙にもなっているこの作品がたくさんのことを物語っている。
お買い求めはONSUNDAYSで。
2011年9月20日火曜日
ヨックモック的クリエイティヴィティ
ヨックモックの缶、うちの実家には沢山ある。
うちのクライアントさんのオフィスにもあった。
兄の家にもある。
僕の師匠の家にもあった。
ほぼ全員が、名刺やハガキの整理箱にしている。
ほかにもいろいろなお菓子の入れ物が、同じような再利用をされているが、
ヨックモックがダントツに多いような気がする。
なんとなくサイズ感が良いのだろうか。
本来の役目を終えてからも使い続けられるモノって、素晴らしいんじゃないかと、
常々思っている。
逆に言うと、それを意識した物作りが21世紀的プロダクトなのではないだろうか。
それを模索する映画が『ブッシュマン』ですね。
あのコーラの瓶、最高です。
****
小学生の頃、牛乳パックを沢山集めていた。
それは、ロボットを作るため。
程よい数がたまるたびに、巨大ロボが完成する。
今思えば、厚紙とかでも作れたのに、わざわざ牛乳パックがたまるのを待っていた。
はじめから成立している牛乳パックの直方体の姿に、
ロボットのパーツを見出していたのだろう。
リアルに作り込むよりも、牛乳パック感が残るところに面白みがある。
プラモデルも沢山作っていたけれども、
牛乳パックには何とも言えないロマンがあった。
トランスフォーマーなんかを見ても、
もとの自動車のデザインが残っているからこそカッコいい。
このもとが解る感じ、かなり大事なポイントのような気がする。
例えば古紙とか、ペットボトルウールとかに代表される、
もとをわからなくして新しい何かに作り替える類いの物にはない
面白さと可能性を感じる。
***
先日、仲のいい編集者のO.Y.さんが、打ち合わせのときにMacBookAirを出して、
起動させるのかと思いきや、パカッとふたを開けたら、
そこにはA4サイズの書類が沢山挟まっていた。
すげーーー!バインダーにしちゃってる。パソコンなのに。
しかも打ち合わせ中、一度も起動せず、
紙の書類をまたもとのようにMacBookAirに挟み込んで鞄へおさまっていった。
完全にバインダーの役目だけでした。
MacBookAirのボディ素材は飛行機に使うくらいの剛性があるので、
絶対に折り曲げたくない重要書類を挟むにはうってつけですね。
火にも強そうだし。
「大火事に見舞われてもこの書類だけは無傷だったよ、
パソコンは動かなくなっちゃったけどね。」
ということがおきたりすると、鳥肌もんのパラドックスです。
また、別な人の話ですが、iPadをノートに挟んで下敷きにしている人もいました。
メモ機能満載のハイテクマシーンを下敷きにして紙に鉛筆でメモを取る。
すごいパラドックス。
でも素敵!!
***
話を最初に戻しますが、
ヨックモックとコクヨとかが手を組んで、
サイズがちょうど良くできている「名刺入れになるお菓子の缶」を
始めから設計してつくるのはどうだろうか?
と想像してみると、、、
いや、、、、つまらない。
そう設えちゃうと、可能性が無くなっちゃいますね。
この二次的利用は、設定されていないことが重要です。
好きにしてね!というスタンスが発明を生むんですね!
***
気をつけなくてはいけないのは、
ただ単純に再利用すれば良いってものでもなくて、
相応しいかどうかの判断は大切です。
先日訪れた鴨川の食道では、お冷やがカップ酒の空きカップで出て来た。
さすがにこれは引きました、、、。
うちのクライアントさんのオフィスにもあった。
兄の家にもある。
僕の師匠の家にもあった。
ほぼ全員が、名刺やハガキの整理箱にしている。
ほかにもいろいろなお菓子の入れ物が、同じような再利用をされているが、
ヨックモックがダントツに多いような気がする。
なんとなくサイズ感が良いのだろうか。
本来の役目を終えてからも使い続けられるモノって、素晴らしいんじゃないかと、
常々思っている。
逆に言うと、それを意識した物作りが21世紀的プロダクトなのではないだろうか。
それを模索する映画が『ブッシュマン』ですね。
あのコーラの瓶、最高です。
****
小学生の頃、牛乳パックを沢山集めていた。
それは、ロボットを作るため。
程よい数がたまるたびに、巨大ロボが完成する。
今思えば、厚紙とかでも作れたのに、わざわざ牛乳パックがたまるのを待っていた。
はじめから成立している牛乳パックの直方体の姿に、
ロボットのパーツを見出していたのだろう。
リアルに作り込むよりも、牛乳パック感が残るところに面白みがある。
プラモデルも沢山作っていたけれども、
牛乳パックには何とも言えないロマンがあった。
トランスフォーマーなんかを見ても、
もとの自動車のデザインが残っているからこそカッコいい。
このもとが解る感じ、かなり大事なポイントのような気がする。
例えば古紙とか、ペットボトルウールとかに代表される、
もとをわからなくして新しい何かに作り替える類いの物にはない
面白さと可能性を感じる。
***
先日、仲のいい編集者のO.Y.さんが、打ち合わせのときにMacBookAirを出して、
起動させるのかと思いきや、パカッとふたを開けたら、
そこにはA4サイズの書類が沢山挟まっていた。
すげーーー!バインダーにしちゃってる。パソコンなのに。
しかも打ち合わせ中、一度も起動せず、
紙の書類をまたもとのようにMacBookAirに挟み込んで鞄へおさまっていった。
完全にバインダーの役目だけでした。
MacBookAirのボディ素材は飛行機に使うくらいの剛性があるので、
絶対に折り曲げたくない重要書類を挟むにはうってつけですね。
火にも強そうだし。
「大火事に見舞われてもこの書類だけは無傷だったよ、
パソコンは動かなくなっちゃったけどね。」
ということがおきたりすると、鳥肌もんのパラドックスです。
また、別な人の話ですが、iPadをノートに挟んで下敷きにしている人もいました。
メモ機能満載のハイテクマシーンを下敷きにして紙に鉛筆でメモを取る。
すごいパラドックス。
でも素敵!!
***
話を最初に戻しますが、
ヨックモックとコクヨとかが手を組んで、
サイズがちょうど良くできている「名刺入れになるお菓子の缶」を
始めから設計してつくるのはどうだろうか?
と想像してみると、、、
いや、、、、つまらない。
そう設えちゃうと、可能性が無くなっちゃいますね。
この二次的利用は、設定されていないことが重要です。
好きにしてね!というスタンスが発明を生むんですね!
***
気をつけなくてはいけないのは、
ただ単純に再利用すれば良いってものでもなくて、
相応しいかどうかの判断は大切です。
先日訪れた鴨川の食道では、お冷やがカップ酒の空きカップで出て来た。
さすがにこれは引きました、、、。
2011年8月20日土曜日
イッソノコト・イッショクデ・イットク?
「青い空」といっても、青だけでできているわけではない。
けっこう複雑な色が絡み合って、自然な空が作られる。
「青い海」も、
「緑の山」も、
「真っ赤な夕日」も、
ほんとは複雑な色彩構成を持っている。
青い空が、本当に青1色だったらヤバイです。
まったく「抜け」を感じないと思うし、
重たいし、閉塞感満点で、絶望感すら感じるかも。
緑の山も、本当に緑1色だったらヤバいです。
自然物には見えないでしょう。
ちょうどこの「中国雲南省の禿げ山緑化計画」みたいな感じになってしまう。
ちなみにこの塗装に日本円で600万円もかけたそうです。
***
人工的な物でも、1色で作られている物は少ない。
というよりも無いかもしれない。
ほぼ全体が1色でできていても、
どこかしらにロゴマークやタグなんかが存在する。
完全に1色だけでできている物を見ると、
なんとなく未完成品のように思えてくる。
例えば、白1色だったら、それは塗装前の状態に見える。
ビビットな色だったとしても、1色であれば、金型成形しただけの素体に見える。
これから仕上げ作業に入のるだろうと、予測します。
目に飛び込む色数は、
ある物を、完成品として認識するための無意識的判断基準になっている一面がある。
ということは、
1色のみで作られている物が日常生活の中に存在すると、
違和感を感じるはず。
出荷される前の物のように見えるはずだから。
そして、その固定観念を刺激すると、結構面白い。
この青いボートは「ora-ito」というアーティストの作品。
通常、世の中に存在する物は、自然物、人工物問わず、
これだけの範囲を1色で構成されているものには、なかなか出会えない。
(計器の白が惜しい。)
この違和感がたまらなく面白いですねえええ。
青いハンドルを初めて見た。
固定観念を裏切ってくれている。
僕が興味をそそられるのは、
このように、1色にしてしまうだけでアートになってしまう可能性が
芽生えるということ。
これはとある雑誌に掲載されていたアート。
こんな風に、緑一色で塗っちゃっても、かなり奥深いアートになりうる。
花、肌、髪の毛の色相差の剥奪が面白いと思える。
これは、うちのオフィスにあるオブジェ。
本をそのまま型取りした石膏製。
某有名インテリアデザイナーの照明作品用のスタディだったものを、
友人からいただいた。
本物の「本」を型取りしているだけあって、
形は超リアル。それでいて白1色。
この違和感が面白い。こんなにリアルなのに虚なのです。
これは存在認識上のギャップであり、
古くから概念としては存在していたことです。
それをわかり易く視覚的に表現してくれる人が
あまりいなかっただけのこと。
この1色化という行為は、
誰もが一度は考えてみたことがあると思います。
本質的に面白くて新しさを生み出す行為は、
古い概念である場合が多い。
そこが奥深い。
***
ちょっと意味合いが違ってくるのですが、
既に流通している物を、1色化して違う需要を生み出しているケースをご紹介。
例えばこれ、
HUBLOT(ウブロ)のオールグリーン、オールブルー、オールブラック。
ビッグバンというシリーズを1色化したもの。
かなりカッコいいです。
1色じゃない元のデザインを知っていれば、面白さは倍増します。
これが普通のビッグバン(いろいろなタイプがあります)。
***
ためしに、こんなのもいいかも。
ゴレンジャー・オールブラック
実在できたら、
けっこうシュールで面白いと思う。
個々の名前はどうしよう、、、赤レンジャーとか黄レンジャーとか意味ないし。
けっこう複雑な色が絡み合って、自然な空が作られる。
「青い海」も、
「緑の山」も、
「真っ赤な夕日」も、
ほんとは複雑な色彩構成を持っている。
青い空が、本当に青1色だったらヤバイです。
まったく「抜け」を感じないと思うし、
重たいし、閉塞感満点で、絶望感すら感じるかも。
緑の山も、本当に緑1色だったらヤバいです。
自然物には見えないでしょう。
ちょうどこの「中国雲南省の禿げ山緑化計画」みたいな感じになってしまう。
ちなみにこの塗装に日本円で600万円もかけたそうです。
***
人工的な物でも、1色で作られている物は少ない。
というよりも無いかもしれない。
ほぼ全体が1色でできていても、
どこかしらにロゴマークやタグなんかが存在する。
完全に1色だけでできている物を見ると、
なんとなく未完成品のように思えてくる。
例えば、白1色だったら、それは塗装前の状態に見える。
ビビットな色だったとしても、1色であれば、金型成形しただけの素体に見える。
これから仕上げ作業に入のるだろうと、予測します。
目に飛び込む色数は、
ある物を、完成品として認識するための無意識的判断基準になっている一面がある。
ということは、
1色のみで作られている物が日常生活の中に存在すると、
違和感を感じるはず。
出荷される前の物のように見えるはずだから。
そして、その固定観念を刺激すると、結構面白い。
この青いボートは「ora-ito」というアーティストの作品。
通常、世の中に存在する物は、自然物、人工物問わず、
これだけの範囲を1色で構成されているものには、なかなか出会えない。
(計器の白が惜しい。)
この違和感がたまらなく面白いですねえええ。
青いハンドルを初めて見た。
固定観念を裏切ってくれている。
僕が興味をそそられるのは、
このように、1色にしてしまうだけでアートになってしまう可能性が
芽生えるということ。
これはとある雑誌に掲載されていたアート。
こんな風に、緑一色で塗っちゃっても、かなり奥深いアートになりうる。
花、肌、髪の毛の色相差の剥奪が面白いと思える。
これは、うちのオフィスにあるオブジェ。
本をそのまま型取りした石膏製。
某有名インテリアデザイナーの照明作品用のスタディだったものを、
友人からいただいた。
本物の「本」を型取りしているだけあって、
形は超リアル。それでいて白1色。
この違和感が面白い。こんなにリアルなのに虚なのです。
これは存在認識上のギャップであり、
古くから概念としては存在していたことです。
それをわかり易く視覚的に表現してくれる人が
あまりいなかっただけのこと。
この1色化という行為は、
誰もが一度は考えてみたことがあると思います。
本質的に面白くて新しさを生み出す行為は、
古い概念である場合が多い。
そこが奥深い。
***
ちょっと意味合いが違ってくるのですが、
既に流通している物を、1色化して違う需要を生み出しているケースをご紹介。
例えばこれ、
HUBLOT(ウブロ)のオールグリーン、オールブルー、オールブラック。
ビッグバンというシリーズを1色化したもの。
かなりカッコいいです。
1色じゃない元のデザインを知っていれば、面白さは倍増します。
これが普通のビッグバン(いろいろなタイプがあります)。
***
ためしに、こんなのもいいかも。
ゴレンジャー・オールブラック
そしてゴレンジャー・オールブルー
さたにゴレンジャー・オールレッド
実在できたら、
けっこうシュールで面白いと思う。
個々の名前はどうしよう、、、赤レンジャーとか黄レンジャーとか意味ないし。
2011年8月8日月曜日
ナヤンダラ・クリカエセ
miumiu
TOTO
ハンバートハンバート
anan
ムームー
リンリンランラン
オレオレ詐欺
ミルミル
眠眠打破
強強打破
キンキン
まえだまえだ
ggg
DDD
シュシュ
でんでん
JUJU
トゥクトゥク
Bb
KAKA
COCCO
ボンボン
クスクス
ロミロミ
ウラウラ
蕭蕭
0044 paris
DADA
リーリー
シンシン
レディーガガ
ジジ
Mrポポ
チルチルミチル
シルシルミシル
シュシュ
CCガールズ
CCB
CC-LEMON
SMAP×SMAP
HEY HEY HEY
コイコイ
アイアイ
よむよむ
まるまるモリモリ
ゴキブリホイホイ
ルックルックこんにちは
担々麺
ニンニン
ネネ
ノコノコ
ママ
パパ
ミンキーモモ
ヨーヨー
ルルゴールド
レレレのおじさん
AAA
FF
hhstyle.com
JJ
KKK
LL Brothers
AUDI TT
VVVフェンロ
プリンセスプリンセス
ガリガリ君
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赤々舎
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nano/nano graphics
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赤々舎
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2011年7月26日火曜日
らしさ
僕は、
アートディレクションやデザインのような商いを続けておりますが、
それらの仕事は、
「〜らしさ」と「〜らしくなさ」のコントロールのような気がしている。
短絡的には「意外性の使い方」と思いがちだが、
それとは全く違う。
「〜らしさ」と「〜らしくなさ」は相反する物ではなく、
共存しないと新しいステージは訪れない。
例えば、
「この写真集は和風だから、表紙のタイトルは
どう考えても明朝体がしっくりくるよね!(らしさ)」
という判断は世間が認識しているテイストをリピートしていることになるから、
という判断は世間が認識しているテイストをリピートしていることになるから、
基本的には好きじゃない。
そこには当然、安心感のようなものが芽生えるので、良い面もある。
その安心感をすんなりと芽生えさせるためには、
その安心感をすんなりと芽生えさせるためには、
実はレベルの高い見せ方が要求される。
「らしさ」という山の頂上にむかって突き進んでいるだけでは、
次のステージは訪れない。
というのが持論です。
先述の例えの場合、
単純にゴシックにすれば良いのかというと、
表面的には「らしさ」と逆にいっているのだが、それは違う。
次のステージへ登るために大切なのは、
「らしくないらしさ」を読み解くことだと思う。
僕が思う理想の制作スキームは、
「らしさ」を見極めることから始めるが、
それは「らしくなさ」を見つけるための行為であり、
その後、「らしくなさ」という山に登り始めます。
「らしくなさ」という山の頂上から、
「らしさ」の頂上へ吊り橋を架ける方法を探します。
その結果としてのゴシックであれば、
次のステージに上がったゴシックになっていると思う。
そこには、ステレオタイプの安心感は無いが、
驚きの中に、安心感を植え付けているはずなのです。
*****
自分自身にも「らしさ」を培っていかなくては、、、と思う。
そうすれば、自分の表現の中で「らしくなさ」の相乗効果を作り出せるから。
2011年7月7日木曜日
コビリツイタ・イメージ
シェイクスピア作品でもっともえげつない作品は、
おそらく『タイタス・アンドロニカス』だと思う。
ローマ帝国の武将タイタスに破れたゴート族の女王タモーラが
言葉に表現できないほどの残虐な復讐をする話です。
タイタスの娘ラヴィニアは夫を殺され、さらに強姦され、
さらに口封じのために舌を切られ、おまけに手も切られる。
そして極めつけが、手を切ったあとに、木の枝をくくり付けるんですyo!
映画でそのシーンを見たときに、
両手首が木の枝になって絶望する姿が目に焼き付いてしまって、、、。
(画像が見つからないので、ここに掲載できないのですが)
そのシーンは、凄く残酷な描写なのですが、とてつもなく美しいのです。
その美しさが手伝って、一方的に残酷さが僕の毛穴から入ってくるような、
無抵抗感に支配されました。
そして気持ち悪くなって吐きました。(お食事中の方すいません)
そのビジュアルがずっと頭から離れずにいます。
ちょっとしたトリガーによって、それを思い出してしまう。
辛いんです。けっこう。
たとえば、こいつです。コブラさん。
そして、こいつも。
なんかむかつく。
コブラもフック船長もウルヴァリンも、手に何か付いてるから、
原因が分かり易いのですが、
最近は、そのことに限らずに、なんか変なもんが付いてるだけでも、
ラヴィニアを思い出しちゃうんです。
こんなのでもラヴィニア。
そしてこんなのでも。
これハンズフリーフォン?
さらに、人間じゃなくても、本来の姿に異物が融合していると、
ラヴィニアを思い出しちゃう。
例えばこんなの。
さらに世界遺産でも。
あと、最近の女子がやってるネイルアートも、かるくラヴィニアなんです。
もうトラウマですね。
極めつけはこれ。自爪なんだけどね。
うううっ、、吐きそう。
生物はきっと、素体がイチバン美しいと思う。
(この発言は、いろいろな問題を誘発しますが、見過ごして下さいませ。)
ちょっと、意味が違うけど、
工業製品とかも出荷されたときのままが美しい気がする。
改造車とか、携帯のシールカスタマイズとか好きじゃないです。
でも、生物と異物の融合であっても、ラヴィニアの記憶は出てこなくて、
なおかつ僕の中で永遠の美として記憶されており、
ガンダムとともに私をデザイン業界へと駆り立てた写真があります。
これです。
これを初めて見たときはかなり若かった。
ショックでした。素敵すぎて。
そのころは、こういう形をしている義足があることを知らなかった。
美しい。
足の形を模して、足があるかのようにするための義足ではない。
そんなことはもうどうでも良くて、
膝から下が無い人がいかに速く走ることが出来るかということを
追求したフォルムです。
パワーアップアイテムです。
障害に向き合うスタンスを真剣に考えた瞬間でした。
この写真の女性は、我々よりも進化する可能性を秘めていると感じた。
僕にそう思わせたこのデザインに惚れた。
そして何よりも、この写真が美しいことに感動しました。
完璧でセクシーな上半身、鍛え抜かれたヒップラインと太もも。
生命力は僕よりも確実に上です。
ナノナノグラフィックスを立ち上げてからずっと、
会議室にこのコピーを貼っていたくらい好きですし、
もはや自分のスローガンのような存在になっています。
方向性に迷ったときに、幾度となく大切なことを気付かせてくれました。
でも今は、卒業しています。この写真を。
引っ越しを機に貼るのはやめました。いろいろ僕も成長したからね。
おそらく『タイタス・アンドロニカス』だと思う。
ローマ帝国の武将タイタスに破れたゴート族の女王タモーラが
言葉に表現できないほどの残虐な復讐をする話です。
タイタスの娘ラヴィニアは夫を殺され、さらに強姦され、
さらに口封じのために舌を切られ、おまけに手も切られる。
そして極めつけが、手を切ったあとに、木の枝をくくり付けるんですyo!
映画でそのシーンを見たときに、
両手首が木の枝になって絶望する姿が目に焼き付いてしまって、、、。
(画像が見つからないので、ここに掲載できないのですが)
そのシーンは、凄く残酷な描写なのですが、とてつもなく美しいのです。
その美しさが手伝って、一方的に残酷さが僕の毛穴から入ってくるような、
無抵抗感に支配されました。
そして気持ち悪くなって吐きました。(お食事中の方すいません)
そのビジュアルがずっと頭から離れずにいます。
ちょっとしたトリガーによって、それを思い出してしまう。
辛いんです。けっこう。
たとえば、こいつです。コブラさん。
これを見ただけでも、ラヴィニアを思い出してしまうんです。
コブラ自体はとても好きなんですけどね。とくにラグボールのシリーズは。
そして、こいつも。
なんかむかつく。
そしてウルヴァリンも。
コブラもフック船長もウルヴァリンも、手に何か付いてるから、
原因が分かり易いのですが、
最近は、そのことに限らずに、なんか変なもんが付いてるだけでも、
ラヴィニアを思い出しちゃうんです。
こんなのでもラヴィニア。
そしてこんなのでも。
これハンズフリーフォン?
さらに、人間じゃなくても、本来の姿に異物が融合していると、
ラヴィニアを思い出しちゃう。
例えばこんなの。
さらに世界遺産でも。
あと、最近の女子がやってるネイルアートも、かるくラヴィニアなんです。
もうトラウマですね。
極めつけはこれ。自爪なんだけどね。
うううっ、、吐きそう。
生物はきっと、素体がイチバン美しいと思う。
(この発言は、いろいろな問題を誘発しますが、見過ごして下さいませ。)
ちょっと、意味が違うけど、
工業製品とかも出荷されたときのままが美しい気がする。
改造車とか、携帯のシールカスタマイズとか好きじゃないです。
でも、生物と異物の融合であっても、ラヴィニアの記憶は出てこなくて、
なおかつ僕の中で永遠の美として記憶されており、
ガンダムとともに私をデザイン業界へと駆り立てた写真があります。
これです。
これを初めて見たときはかなり若かった。
ショックでした。素敵すぎて。
そのころは、こういう形をしている義足があることを知らなかった。
美しい。
足の形を模して、足があるかのようにするための義足ではない。
そんなことはもうどうでも良くて、
膝から下が無い人がいかに速く走ることが出来るかということを
追求したフォルムです。
パワーアップアイテムです。
障害に向き合うスタンスを真剣に考えた瞬間でした。
僕の母が、第1級の障害者認定を受けている人なので、
人生観ごと変わったのです。もちろん良い方向にです。
僕にそう思わせたこのデザインに惚れた。
そして何よりも、この写真が美しいことに感動しました。
完璧でセクシーな上半身、鍛え抜かれたヒップラインと太もも。
生命力は僕よりも確実に上です。
ナノナノグラフィックスを立ち上げてからずっと、
会議室にこのコピーを貼っていたくらい好きですし、
もはや自分のスローガンのような存在になっています。
方向性に迷ったときに、幾度となく大切なことを気付かせてくれました。
でも今は、卒業しています。この写真を。
引っ越しを機に貼るのはやめました。いろいろ僕も成長したからね。
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