注)かなり身勝手な解釈の文章ですので、読んだら忘れて下さい。
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「青っぽくて、ふんわりした感じ」
最近そんな写真が多い。
プロ、アマ問わず、多い。
流行っぽい蔓延。たしかにおしゃれにも見える。
世の中で流行る創作活動に共通していること、
それは、「自分にも出来そうな感じ」です。
例えば代表的なのが、
陶芸
書道
写真
ではないだろうか?
どれも、プロの作品を見たときに、
なんとなく出来そうな気がしてしまう人が多いのではないか。
僕の場合は、かなりおめでたいので、
サッカーを見ても、野球を見ても、ゴルフを見ても、
なんとなく出来そうな気がしてしまう。
テレビに食い入るように見て、技術を盗もうとまでしている。
出来ないくせに。
バカです。
でも、今あげた3つのスポーツは、
日本ではアマチュアの競技人口がものすごく多い。
それって、見ているうちにやってみたくなる人が多いってことです。
つまり、「俺にも出来そう」と思う人が多いということだろう。
その昔、
空を飛ぼうとして亡くなったひとは沢山いた。
両手に羽を付けて。
鳥を見て、「俺にも出来そう」と思ったに違いない。
「俺にも出来そう」という気持ちは、
麻薬のような効能がある。
自分のキャパを超えてみようとする、
もしくは超えられそうだと思う錯覚を抱かせる。
犬ですら、飼い主と走っているとき、ちょっと小高い段差に飛び乗って見せると、
同じことをしようとして、届かずに落ちることがある。
これって「俺にも出来そうだワン!」って思ったってことです。
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この「俺にも出来そう」感は、その世界を甘く見ていることに繋がるのだが、
結果的に、そういう人が増えれば増えるほど、
その道を究めた人の素晴らしさが浮き彫りになる。
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冒頭で語ったように「青っぽくて、ふんわりした感じ」を作風にしている写真家、
もしくは、写真愛好家って多い。
多すぎてもう食あたり気味です。
好きになりそうな写真も、結構見かけるのですが、
似たり寄ったりな物が多すぎる。
もちろんその中には社会的地位を確立している人も沢山いるのですけどね。
そもそも表層的な部分でカテゴライズしている僕がおかしいのですが、
あえてそういう心の狭い視点で見てみるのも面白いです。
で、
先日入手した写真集を見て思った。
この写真家さんは、浮き彫りになった人なのだと。
とにかく素晴らしい写真集なのです。
これを見たら、「俺にも出来そう」とは誰も思わないでしょう。
僕は常々思っている、
写真は複数を組むことで成立する文学だと。
もちろん偏った意見ですが、僕はそう思う。
その思いを完璧に肯定してくれた写真集だったのです。
しかも、その見開きに現れてくるリレーションは、
マッチング的な薄い意図ではなく、
根源的というか、先祖帰りというか、
ずうううっと向き合っていないと感じられないことを、
感じさせてくれた。
きっと、ずうううっと向き合っていることが
好きな人じゃないと、この感じは生み出せない気がする。
その写真集の写真家さんご本人の話でも、
脈絡の無い撮影を繰り返しながらも、
頭の中では、それを繋ぎ合わせるための編集作業のようなことを
ずっとし続けていると言っていた。
「カメラがこの世から消滅したら、何で自己表現しますか?」
とお聞きしたら、「文章」とお答えになりました。
やっぱ文学だ!
***
「青っぽくて、ふんわりした感じ」って、ほとんどが自然光の写真です。
日本では「自然光」と言えば太陽光のこと。
その種の人はだいたい太陽の光によって「青っぽくて、ふんわりした感じ」を
出している。この段階の解釈はみんな出来る。
欧米での「自然光」の意味は一寸ちがう。
写真業界に限っての解釈ですが、
撮影者が意図して作り出した光以外の全てを「自然光」と言うそうです。
つまり「その場の光」のことです。
素敵すぎる!!!!。ぞくぞくする。
本質がそこにある気がする。それこそまさに「自然光」です。
ちょっと言葉遊びっぽいけどね。
この「その場の光」という深い感じを、見る人に与えてくれる写真って少ないです。
たとえコントロールしていない光で撮影した写真だとしても、
なかなかそう感じるものはない。
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前述の写真集は全て「その場の光」で出来ていた。
青っぽくてふんわりした感じ。
返信削除手軽にアマチュアの方の写真を見る機会が増えたこのごろ、確かに多く見かけます。
ちょっと素敵に感じて、ちょっとマネしてみたくもなったり…
でも何となく気恥ずかしい感じです。青っぽくてふんわりした感じ。
「自然光」=「その場の光」かぁ。難しい。
お休みの日にはカメラを持って出かけよう!とするようになった最近なので
とても気になる記事でした。
写真集、チェックしてみます。
欧米での「自然光」の意味=「その場の光」、とても興味深かったです。
返信削除この感覚、物事の根底に共通して存在するもののように感じました。
例えば、書でいえば、
筆から滴り落ちてしまった墨や線のカスレに存在してると思います。
自然のなりゆきで、滴り落ちた墨やカスレには、
その線がどんな意志を持って引かれたのか、筆運びの速度、文字に対するリズムなど、その場のすべてが写されるのですが、この「自然のなりゆき」が「その場の光」と同じ感覚のように感じました。
「自然のなりゆき」には、意図的な墨を落としたり、カスレさせたりという作業が入る余地はなく、入れたところでかえって気脈を途切れさせてしまい、浅さが露呈してしまいます。
純粋な書の作品ではない、デザイン要素としての書には、意図的な追加が必要なときもあると思っています。
ただ、自然のなりゆきとのバランスを、どのレベルで実現できるかが作家ごとの個性や腕のみせどころになるのかもしれません。
『その場の光』を、どのレベルで実現するか、できるのか。
今の私にとっては大きなテーマです。
n_n1181さん
返信削除6月24日からおたくのビルのFOILでこの写真集の展覧会が始まりますよ。
時間がとれたらオープニングに行きたいなと、、かなわなそうな予定を立てています。川内さんは最高に素敵な人です。写真本に出品していただき、ご縁が出来ました。
3tealionさん
僕が大好きな言葉に「無作為」がある。
これは日本人が育てたハイレベルな感覚だと思う。
それの化身が「書道」だと思います。
書の素晴らしさって、「無作為感」がかっこよさに転じているところなんだと思います。よい書はみんなそう。例外無く。
だから、3tealionさんの言っていること、感じていること、すべて納得。
昔のあなたを知っているだけに、素晴らしい表現者となった今のあなたはカッコいいと思うよ。自分に正直だしね。食いしん坊だしね。
期待しています。そして、応援しています。
僕も表現者になりたい。