2011年4月30日土曜日

スタジオボイス+ニッケイビーピー+ナノナノグラフィックス・アット・オンサンデーズ

人生初のトークショーに出演させていただきました。
以前ご紹介した、架空の1日を再構成した写真集
『写真本 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24』
(シャシンボン・ニジュウヨンエイチ)
 の出版記念写真展の企画です。

司会:加藤陽之さん(STUDIOVOICE編集長)
出演:この本の企画編集である、安藤夏樹さん(日経BPコンサルティング)
アートディレクション担当の、おおうちおさむ(ナノナノグラフィックス)

このほかにも、参加写真家さんのトークショーが4回あるのですが、
制作側の人間だけでおこなう珍しい企画です。
安藤さんは、その4回全ての司会をこなします。マルチな方です。
御正室はガンダム好きでした。

向って右から、加藤さん、安藤さん、おおうち
白熱
オンサンデーズの草野さんも白熱
終了後も白熱。手前は日経BPのアイドル、ナミコちゃんとマサエちゃん。
イーストさんたち。ヒラーキーさん後ろ向きご容赦。

とても内容の濃いトークになりました。
加藤さんはSTUDIOVOICEの「紙」での復刊を目指し、
かっこいいスタンスで試行錯誤中です。

最近は、出版業界の人が集まると、
紙と電子メディアの将来のことを必ず話す風潮。
両者は比較する事自体がナンセンスだと思うのですが、
加藤さんがおっしゃっていたことが、妙に心に響きました。
誤解覚悟で要約すると、

「戻る場所としての紙媒体を、残しておく必要がある」
ということです。

いろんなことの答えがこの言葉に集約されているような気がします。
皆が共感できることではないと思いますが、
私は強く感銘を受けました。


話は変わりますが、
今年の1月に、
全日本卒業アルバム印刷組合というところから、お仕事の依頼を受けました。

卒業アルバム業界にも電子化の波が押し寄せていて、
紙で作る高価な本に対する理解が減っているとのこと。
紙で作る場合、掲載写真数が限られるので、
「うちの息子の写真が少ないじゃないか(怒)」
といったことがおこります。
電子メディアの場合は、大量の写真データを提供できるメリットがあり、
「うちの息子の写真がたくさんのってて幸せざますう。」
ということになるのですが
そこには秀逸な編集は存在しません。

全日本卒業アルバム印刷組合としては、電子メディアを否定はしないが、
紙の本として残す価値をもっと訴求できたらいいなという思いがあり、
わたしにご相談下さりました。
今年度に配る予定の何十万冊もの卒業アルバムに、
そのことを訴求する小冊子をはさみ込みたいのだそうです。

紙であることの良さ、、、、。
そこで、こんなことを提案しました。

見開き単位で進行する冊子とし、
右ページに本(卒業アルバム)の写真。左ページに人の歴史を感じさせる写真。
その関係を崩さずに数十見開きが続きます。
ページを追うごとに、
右の本はだんだんぼろぼろになって行くのですが、
左の人の歴史写真は、卒業し大人になり、社会的地位を築き、
結婚して子供ができる、という具合に、成長して行きます。
そして生まれた子供が小学校へ入学して終わります。
また素晴らしい人生が始まるのです。

タイトルは「卒業アルバムと一緒に年を取るということ」です。

組合のみなさんに大変気に入っていただきました。
くどくどと思いを語る冊子よりも、
印象で理解してもらえるようにした狙いが、伝わりました。


表紙です。
こんな見開きが続きます。右の本はどんどんボロくなっていきます。

3.11のときに、卒業アルバムは大量に流されてしまいました。
生徒さんに渡す前のものがほとんどで、
ほんとうに悲しい。
学生さんだけでなく、人々の大切な思い出としてのアルバムも沢山失われました。
この小冊子もストップです。

全日本卒業アルバム印刷組合では、
なんとか卒業アルバムの復刻を作れないかと検討中です。
もちろん昔の物も。
震災被害に遭う前の美しい町並み、自然、校舎、生活、
それらが写っているアルバム。
それらは二度と撮影できない風景となってしまいました。

「シャシンボン・ニジュウヨンエイチ」のコンセプトは、
「東京の2010年の記憶と記録」。
今回の震災と、 全日本卒業アルバム印刷組合の仕事に触れて、
また違う意味での 「シャシンボン・ニジュウヨンエイチ」
の有り様が見えてきた気がします。

「シャシンボン・ニジュウヨンエイチ」の第二弾を実現したいです。

2011年4月29日金曜日

千足伸行『交響する美術』

千足伸行
1940年、東京生まれ。東京大学文学部卒。
TBS(東京放送)を経て国立西洋美術館に勤務。
1970~72年、西ドイツ(当時)政府給費留学生としてドイツに留学。
ミュンヘン大学で主にドイツ・ルネサンス美術を学ぶ。
帰国後、西洋美術館に復帰。
1979年、同館を辞し、成城大学文芸学部に勤務、
2011年3月まで、同大学文芸学部教授。
専門分野はヨーロッパの近代美術、とりわけ世紀末を中心とする各国の美術。
また、西洋美術関係の展覧会の企画、監修にも多数携わっている。

こんな素晴らしい方の成城大学教授退官記念出版『交響する美術』(小学館)の
装丁の依頼をいただきました。

とても有名な方で、西洋美術界への貢献度は計り知れません。

どのような装丁にするか、、、、。
全然悩みませんでした。

本文の内容は、20本のテキストは過去の140余の展覧会カタログに執筆したものから
選ばれている。もちろん今回のためにリライトをしています。
この本文自体が「交響」しているので、
装丁は、本文の「交響」をグラフィックで表そうと思いました。
手法は違えど、表すものは中と外で同じにしたかった。

結果、このようなデザインになりました。

外箱 背
外箱 表1
カバー 背
カバー 表1

表紙 背
表紙 表1

みなさんのご意見は様々だと思いますが、
自分としては、かなり満足できる仕上りです。

浪人中、365日、毎日デッサンと幾何構成を繰り返していたときに
培ったものが滲み出ている気がします。
体の奥深くに染み込んでいる造形バランスを、
迷うこと無く発揮できたので気持ちいいです。
若い頃に手に入れたものは、去っていかないのですね。
自然体で呼吸すると、私のテイストはこんな感じで現れるのだということを、
認識しました。

普段の仕事はなかなかそれができない。
もちろんそれは悪いことではなく、日々の成長を与えてくれます。
いずれ、それも自然体の呼吸に取り入れていければ幸せです。

この案件を私に依頼して下さり、デザインに多大な理解を示していただいた
小学館の清水芳郎さんに感謝です。

8,500円と高価な本ですが、素晴らしい内容です。
是非、書店でお手に取ってみて下さい。

2011年4月26日火曜日

向島葡萄亭

良いお店のお仕事をさせていただいたので、
ここで宣伝させていただきます。

今月末に、「向島葡萄亭」という店がオープンします。

老舗の味噌問屋だった「遠藤利三郎商店」が、
押上でワインに拘ったビストロを始めてから数年がたち、
人気店として不動の地位を築いてきました。
オーナーの遠藤誠さんという方は、
ワインスクールを自ら作ったしまう程のワイン博士です。
さらに、クリエイティブに大きな理解をくださる方で、
とても貴重な存在です。

そして2店舗目として、向島にアッパーグレード店を出します。
それが「向島葡萄亭」です。
当然、ワインに拘ったお店です。
そのグラフィックデザインを弊社で手がけさせていただきました。


これがメインロゴマーク。


そしてこれが桜橋にちなんで、
ワイングラスで作った桜の花。

インテリアデザインは橋本夕紀夫さん。

ガラリで囲まれた行灯のような外観



向島と言えば、芸者さんが日本一多く在籍している町ですね。
そのイメージを踏まえて、なかなか艶のある店内です。
2階は斎藤上太郎さんの織物を天井にあしらった、真っ赤な空間。

これが2階の天井

2階がかなりコンセプチュアルなので、
1階の天井にも、何か「日本の美」的な施しを考えてほしいと頼まれました。
1階は木の質感を生かした、焦げ茶色な空間。
天井は升目になっている。
意味も無く日本画のようなビジュアルをあしらってもつまらないので、
以前、作品集を手がけたことがある『江戸の判じ絵』を使うことにしました。
たばこと塩の博物館の岩崎先生にご協力いただき、
面白い天井画ができました。

こんな感じです。


『江戸の判じ絵』ってすごいんです。
ダジャレの天才。親父ギャグづくしです。

たとえばこれ、
肘に木がはえているから「ひじき」です。




つぎにこれは、ダクトの蓋に貼るために細く切り刻んで見づらいのですが、
戸の影に隠れているから「トカゲ」です。



さいごにちょっと難解なやつをご紹介。
上半分の鹿、つまり「し」
そこに矢が刺さっているから「しゃ」
下の方に毛があるので全部合わせて「しゃけ」(鮭)。



すごすぎです。

ダジャレのセンスは現代と何一つ変わらないのです。
すごいぞ日本人。

ちなみにメニューフォルダも緞子張りの豪華仕様。



向島葡萄亭
東京都墨田区向島5-27-10
tel:03-6658-5171
ぜひ一度、足を運んでみてください。本当におすすめです。
料理はフレンチベースの創作系。かなり美味しいです。

2011年4月24日日曜日

ブルージーンズもメモリーするのだ

おそれずに、短絡的な見解を書いてみようかな、、、と思います。


脳みそを持つ生物は、記憶ができる。
脳みそを持たない自然物は、記憶をするのだろうか?
(今回は、「記憶」をハートフルな「思い出」的なことと定義します。)

たぶん、石には記憶能力があると思う。
また、それを伝える力もあると思います。
「石=意志」この二つが同音なのも、なにかを勘ぐらせる。

多くの公共建築物には、石を使ったオブジェが置かれている場合が多い。
大使館、美術館、公民館、駅、百貨店、劇場など、
必ずと言っていい程、ある。
素敵だからそうするのだろうけど、それだけの理由では納得できない。
数があまりにも多い。

その多くは、全国各地から取り寄せた名石を使っている。
いずれも東京には無い大自然の恵みをいっぱい記憶した石たちです。
きっと、その素敵な記憶を伝える(流布する)能力があるがために、
その場を素敵空間に変えてしまうのだと思う。

以前、イサムノグチ庭園美術館の仕事をしたことがあり、
何度か高松を訪れた。
言わずと知れた、巨匠イサムノグチの作品に触れ、
受け止めきれない感動を覚えたものです。

イサム・ノグチ作 エナジーヴォイド


でも、私がイサムノグチ(石彫に限る)よりも興味を持ったのは、

イサムノグチの制作パートナーをずっと努めてきた彫刻家、
和泉正敏さんの作品です。

前述のように、石は記憶を持っていると思います。
この世に誕生してから、天変地異的なことを沢山経験し、
高松の石切場に眠っていたそれらを料理して、
自分の意志を融合させているのがイサムノグチ。
石は、長くて深い記憶が根底にあるからこそ、
削って、磨いて、うねらせて、着色されても、
作為的になりすぎない。そんな素材だと思います。

何十年も一緒に制作をしてきた和泉さんの作品は、
たぶんイサムノグチとは違う方向を追い求めているのではなかろうか?
間近で彼の創作に接してきたからこその志だと思う。

和泉さんの展覧会図録を作るために、作品を撮影させていただきながら、
ほんの少しですが、作品作りのことをご本人にお聞きしたことがある。

石には、芯(私の解釈では記憶)がある。
それを見つけるまでが創作活動。
あとはそれに従って割るだけ。
「石は磨けば磨く程弱くなり、叩けば叩くほど石でなくなってしまう。」
ということだそうです。
人間だって、記憶を書き換えられてしまったら、別人になってしまう。
ありのままの人生をどう生かすかが、生きた証になる。





この写真はその展覧会図録のページ。
私が好きな2作品です。すごく好きです。
さきほどの和泉さんの言葉が見事に昇華されている作品だと思います。
最小限の行為だけで作品に仕上げています。
でも、この石に出会って、対話して、何を施すかを決めるまでに
何年もかかっていることと思います。

誤解を覚悟で言うと、
イサムノグチと和泉正敏には、
「創る」と「創らない」の差がある。

世の中を見渡すと、著名な二人組には、
「理論派(創る)」と「天然派(創らない)」で構成されている場合が多い。
例えば、
「相棒の右京さんと亀山」とか「古畑任三郎と今泉君」とか「室井さんと青島」とか、
あっ刑事物ばっかりになっちゃった。
そうそう、お笑いコンビはほとんどがそのパターンですよね。
最近では「仮面ライダーW」も典型。

何が言いたいかというと、
自己完結できる人達は、自然界と繋がるルートを確保しているということ。
自分の中だけではアースできないので、
天然型人間の自然回帰能力を取り入れているのかな、と思う。

イサムノグチが自己完結できる人間とは思わないが、
かなりロジックがしっかりした人なので、
和泉さんがアースになっていた可能性は大。

都会に乱立している石のオブジェは、
アースになっていると思う。

石は置かれた場所の残留思念を記憶すると言われている。
だからむやみに持ち帰ると、その残留思念によって不吉なことが起きたり
するのだそうです。
その石が落ちていた場所が殺人現場だったかもしれないですものね。

石はお墓に使いますね。
お墓には沢山人が訪れますね。
そうしているうちに故人を偲ぶ思いが墓石に記憶されるんですね。
それがアースされて、故人に流れ込む。
そのための媒介なのだと思います。

イサムノグチのお墓は、
それを効率よくこなせるようにできている気がします。
すっごく素敵なお墓でした。

イサム・ノグチのお墓

「イサム・ノグチ」と「オサム・オオウチ」
響きが似ていません?

2011年4月22日金曜日

広い意味で「ポコペン」

みなさん、「ポコペン」って遊び、知ってますか?
きっとこれは愚問なのだと思います。
ほとんどの人が経験しているメジャーな遊びのはず。

そのルールは地域によってかなり異なり、
ちょっと調べただけでも 、私の地域と同じルールが見つかりませんでした。
簡単に言うと、缶蹴り+鬼ごっこのようなものが、
いろんな形に変化していった遊びです。

一番多いスタイルは、鬼が壁に向って目を閉じて、
その他大勢がかわりばんこに背中を叩く。
ポコペンだーれがつっついた」って叫びながら。
鬼は最後に叩いた人の名前を当てる。といったものだそうです。

でも私の地域では、完全に缶蹴りと同意でした。
手頃な缶が見つからないときに、木、壁、柵、石、公園の遊具、
などを缶代わりにします。
それらをポコペンと名付けます。「今日はこれがポコペンな!」 って感じで。
蹴っても飛ばない物が多いので、タッチすることで終了になる。
タッチするときにポコペンと叫んでました。

この私の地域タイプの「ポコペン」の考え方って、
なんだかすごい気がしてなりません。
ポコペンと名付けられた物は、従来の存在意義が剥奪されてしまいます。
大げさですけどね。
ポコペンになった時点で、木は木でなく、壁は壁でなく、石は石でない。
ポコペンは何にでも成れるし、逆に何でもポコペンになれる。
私の中ではポコペンって言葉は、汎用性が高いものの代名詞となり、
「ポコペン的」 という価値基準になっています。

映画『ブッシュマン』のコーラの瓶の有り様は、ポコペン的ですね。
横を叩けば打楽器になり、 
ビンの口に息を吹きかけれけば笛になり、 
水筒になることはもちろん、 
動物の皮をなめすこともできる。   

ポコペンを無理矢理アートと結びつけてみると、
マルセル・デュシャンが思い浮かぶ。
ダダイズム(反芸術活動)の代表的アーティスト。
特に有名なのがこれ。

便器をポコペンしちゃった訳ですね。
本来の意味は剥奪されました。
私の中では、
「ダダイズム」=「意味の剥奪」だったりします。
(いろいろクレームが出そうな発言ですが、、、。)

ダダイズムと言えば、ウルトラマンの怪獣に「ダダ」というのがいる。

  
かなりヤバいルックス。こいつらの特性は、
「3種類の顔を持ち、それぞれを使い分けることが可能。
壁を通り抜ける、姿を消す、人間に乗り移る、テレポートする等の
様々な超能力を持つ。」
だそうで、 ポコペンに通じる何かを感じます。
ダダイズムに通じる何かも感じます。
見た目だけでも十分に反芸術活動的。
ダダイズムから名前を取ったのだと信じたいです。

それにしても、ダダって、マイケルジャクソンと五輪真弓にそっくりですね。



これも、汎用性の一種か?




2011年4月18日月曜日

履歴ってステキ(長文御免)

これからのクリエイティブって難しい。
やみくもに新しいものを生み出して行くのは、
なんだか違う気がする。

もちろん、新しい物を生み続けて、
新体験を与えていくのは可能なのだと思うのだけど、、、。
そこにどれだけの喜びや幸福があるのだろうかと、考えたりする。

ふと、逆を考えてみる。
『新しくないことを創造して、旧体験的な面白さを生み出す』
と言ってみたとき、それってどういう事だろう?
と悩む。

そんな事を数年間考え続けていて、
なんとなく、その糸口が「履歴」にあるんじゃないかと思うようになりました。
「履歴」は、けっこうなエンターテイメントだと思うのです。
例えば身近なところで言うと、
WEB閲覧の履歴、通話記録、カーナビの記録、などは
行動と興味の変遷をビジュアル化してくれます。
あの日、自分は何を考えていたのかを思い出せます。それは結構面白い。

「経年変化」という言葉がある。
木や革など、時が経てば使い方に左右された変色や変質をする。
世界に一つの物となる。
これも「履歴」と呼べるし、それが表現になる例です。

今度は、その「木」に注目してみると、
その美しさを決定づける木目が「履歴」なのです。
その模様は成長過程の「履歴」の集大成です。

この写真はTONERICOの実験スツール。
16種類のスツールを、板目と柾目で2種づつ作っている。

madame FIGARO.jpより

左の上下2種が板目、右の上下2種が柾目。
木目の使い方を変える事で、表情や強度が変わる。
木目のことは昔から知っている。板目と柾目がある事も知っている。
でも、同じ形の椅子に、使い分けた物を比較した事は無い。
それを見せてくれている。
これこそが
『新しくないことを創造して、旧体験的な面白さを生み出す』ことなのだと
思います。

TONERICOは、私の自宅をデザインして下さった友人で、
弊社とほぼ同時期に会社を立ち上げました。いまやスターデザイナーの彼ら。
私とずいぶん差が付いてしまいました(悲)。

次は、デザインとかじゃない例。
UEFAが発表しているサッカーの試合の選手の行動マップ。


これは、先日のチャンピオンズリーグ、インテル対シャルケ04・セカンドレグでのマップ。
左が内田、右が長友。
ここから読み取れる事はたくさんある。これって、面白いですよね。
サッカー選手の動きをつなぎ合わせたら、
きっとこんな形になるだろうと想像してきたことを、
実際にビジュアルで見せてくれる。
これも、
『新しくないことを創造して、旧体験的な面白さを生み出す』ことなのだと
思います。


最後に、「履歴」を演出した秀作。
鷲尾和彦の写真集『極東ホテル』の装丁。
この写真集はよく見ると表紙が無いんです。書名・著者名は帯にだけ入っている。
そこで、背の付近をよく見てみると、以前は表紙が貼ってあったのだが、
何者かによって剥がされてしまったかのような糊のあとがある。


この写真でわかるかなあ?
本の装丁に、時間の経過を仕込んだドラマティックな傑作です。
もちろん、写真集の内容が素晴らしく、それとの相乗効果が条件ですが。
これも「履歴」と言える。
演出ですけど『新しくないことを創造して、旧体験的な面白さを生み出す』ことが
おこなわれています。

これから先の世界にふさわしい表現を考える事は大切だし楽しい。
小さな個人が考え出し、それがやがて大きな価値観になり、
次の次元の豊かさが訪れることを期待して、日々を過ごそうと思います。



●おまけの「履歴」。前述の表現の話とは全く関係ありません。

これが民主党政権の震災1ヶ月間の見事なまでの対応だ!w
(nikaidou.comより転載)

蓮舫、襟を立てる
蓮舫、スーパーを視察する
菅直人総理、原発を視察して東電の対応送らせる。
視察後、官邸に戻ってきた菅直人総理が周囲に「原発は爆発しないよ」と名言→原発爆発
菊田まきこ議員、ジャカルタで買い物、スパ、エステ三昧
政府、被災地向け電池190万個を送らず
菅直人総理、震災復興という最も大事な仕事を野党に丸投げ
政府、原発周辺の対応が10キロ→20キロ→20~30キロと後手後手で住民混乱
政府、原発事故初期段階でのアメリカの支援を拒否→原発爆発
政府、アメリカに続き、フランスからのロボット提供支援も拒否
鳩山由紀夫「海から直接長いホースで海水を原発にかけるべき」と提言
仙谷由人を官房副長官、辻元清美を総理大臣補佐官に任命
姫井由美子議員、自身のブログで非常食や非常用毛布をニコニコ顔で紹介
政府、計画停電の内容を東電に丸投げ、原発の放水方法も現場に丸投げ。
菅直人総理「私は原子力に強いんだ」と発言
菅直人総理「東日本がつぶれることも想定しないといけない」と発言
菅直人総理、自衛隊の派遣人数2万人→5万人→10万人と思いつきで増やし、現場大混乱
蓮舫、計画停電の混乱について「初めてのことなので、、、」と発言
岩手が地元の小沢、衆院本会議を欠席。一週間経ってようやくコメント出す。
災害対策本部、一週間経っても具体案出せず
安住淳国対委員長『学校のプールにガソリンを貯蔵出来ないか」と提案
海江田万里経産相、消防隊員に「速やかにやらなければ処分する」と恫喝し、放水車壊す
経済産業副大臣「最悪の事態は、神のみぞ知るでございます」と発言
北沢俊美防衛相「グローバルホークの映像公開しない」
仙谷が、自民党に谷垣氏を総理に、自身を副総理にして大連立を提案
菅直人総理、初めての被災地視察で被災者に「物資が届かない状況はどうなってますか?」と質問
菅直人総理、児童の大半が亡くなった小学校を視察し、ランドセルを見て、「なんとか直人が送ったのかと思った」と冗談をかます。
政府、世界170の国と地域から支援物資が集まるも、そのうち30カ国しか受け付けず、残りは全て拒否か無回答
菅直人総理「放置したら原子炉が溶解し、アメリカが(原発を)占領しに来るぞ」と周囲に漏らす
政府、気象庁の「放射性物質拡散予測」を非公開にしていた
菅直人総理、「第一義的には東電の責任」と発言
枝野幸男官房長官、家族をシンガポールへ逃がす

2011年4月15日金曜日

ギシキテキ

イタコって、いい動きで踊る。
魂を憑依させるために踊る。
黄泉の国との契約のための儀式なのか?

ぼくは昔から「ヴァイオリン」の演奏を見るたびに、
これって演奏じゃないな。
などと思っていた。

ギター系、ドラム系、金管系、
たいていの楽器はそう思わない。
奏者の動きは、その「音」を発するための理にかなっている。

でも「ヴァオリン」は違うんです。
チェロ、ヴィオラ、コントラバスもそうかというと、
そうだけど、、、そうではない。
やはり「ヴァイオリン」だけ違う。
その音を出すための動きに見えない。
踊っている。

どうみても、イタコのように、
美しい音色を「天界」から降臨させるための儀式に見える。
おそらく、叩いたり、弾いたり、吹いたりするのとは
違うからなのだと思うのだが、、、?。

長く響かせるときも、ヴァイオリンはずっと擦っている。
フェードアウトも人為的。
通常の弦楽器は、弾いて放置。そして音は勝手にフェードアウトする。
つまり、自然現象に頼っている度合いが低いから、
表現力を問われる度合いが高くなり、
それを「天界」から認められたら、素敵な音が降ってくるのだと思う、、、?。
むむ、違う気もするなあ。

なんとなく、「テルミン」を演奏するときの、
奏者の動きと音色のギャップに似ている気もする。
あれこそ、カッコいい踊りに対する対価としての音色ですね、、、、?。

こんな事を考えながら、演奏を聴きに行くと、3倍増しで感動しますよ。

昨日、ある人からお借りした本が、東京文化会館のトートに入っていて、
学生時代、何度も室内楽を聴きに通った日々を思い出していたら、
この「ヴァイオリン」に対する気持ちが甦ってきたので、
ここに書いてみました。

2011年4月13日水曜日

たいして調べずにチッパーフィールド雑感

対比。
人はそれによって物事を認識する。
窓の外が明るい。本当に明るいのか?
自分の立っている空間が暗いから、
窓の外が明るく見えるだけかもしれない。

けっこう早いね!
けっこう重たい!
まあまあ青い!
など、
特にボーダーライン際の感覚は、対比に左右される。
比較対象の程度によって、その感覚は増大する。
また、減少もする。

そんな対比による認識は、
ときとして、お互いを引き立て合うことがある。
それぞれの魅力を声高に訴求し始める。

僕はそれが、21世紀の表現だと感じている。

デビッド・チッパーフィールドは
そんな建築家だと思う。(イギリス人)

顕著にそれを感じさせてくれる代表作は
NEUES MUSEUMの改修。2015年完成予定。
第二次世界大戦で壊れた、ベルリンの美術館島。


煉瓦作りの旧建築と、限りなくフラットな素材の対比。
これは解り易い。
煉瓦の壁は、より古めかしく、暖かみが感じられ、歴史の重圧を物語る。
フラットな建具は、平面と直線の関係がより美しく感じられ、
その無機質さが強調される。
そして、両者が作り出す一つの空間は、新しさでいっぱいになる。

幸福というものが右肩上がりの経済成長の中にだけあるのではないことに
みんな気が付いている。
消費し続けることに疑問を感じ始めている昨今。
エコロジー、エコロジー、と叫ばれて久しい昨今。
リーズナブルな時期は過ぎ、
成熟した文化と品格を意識的に作っていく必要がある。
対比は、その糸口を促している。

エイジングに美を見いだし、リペアーで違う次元へ誘う。
その結果生み出されるクオリティには、一朝一夕では太刀打ちできない。
考え方は、陶芸の「金継」に似ている。

ぼくがデビッド・チッパーフィールドを知ったのは
このテーブルで。

独立前に無印良品の仕事をしていて、
これにそっくりなテーブルをオフィスにプレゼントされた。
凄く美しいので、いろいろ調べたら、
デビッド・チッパーフィールドにたどり着いた。

残念ながら、無印良品のものは彼のデザインではなく、
たまたま凄く似ていただけ。どちらも美しいです。

このテーブルは、NEUES MUSEUMのような対比を、
いとも簡単に生み出してしまう。
ぼくの汚いオフィスでも、これを置くと、
疎密の関係性が瞬時に生成され、
お互いを引き立て合う。
汚いオフィスも浄化され、ゴミがゴミではなくなる。
テーブルもより美しく見える。

ちなみにこのテーブルの建築版がこれ

マールバッハ近代文学博物館です。

それからもう一つ、
デビッド・チッパーフィールドの作品で好きなのが、
Kaufhausチロル 。(チロルはアルプス山脈東部の地域)

これはレンダリングなのですが、
すごく素敵。
これも対比なのだけれど、
また意味が違う。
新旧、疎密、それらはきちんと機能している。
お互いを引き立て合っている。
さらにこれは同調もしているのです。
隣り合う建物の流れをそのまま受け入れて、
デフォルメしながらリピートしている。
いい。
21世紀な感じがする。
全てが近代化した映画のような世界は古くさい。

対比を感じながら生活していこうと思う。
太った僕は、小太りの人のそばに立ってあげて、
きみは本当は痩せているんだよって言ってあげようかな。

2011年4月10日日曜日

ヴォイスアクトレス・エターナル・ショウジョ

林原めぐみさんという声優をご存知だろうか?
「エヴァンゲリヲンの綾波レイの声の人」と言えば、
ほとんどの人がピンとくるはず。

アイドル声優というジャンルを作った人で、
現在の声優のアイドル化現象は彼女なしには語れない。
声優としての実力はすばらしく、何年間も第一線を走っている。
歌唱力も申し分なく、「声」芸の達人ですね。
残す敵は、江戸家猫八くらいか。

私は8年前の独立後すぐに、とある出版社の紹介で、
彼女のエッセイ集をデザインすることになった。
独立後、初めての仕事と言えるほどで、まだ「己」を確立できていない私が、
どこまでやれるか、最高の指針になると思った。
彼女が世界中で撮りためた、いい感じのスナップ写真と、
エッセイの組み合わせが軸。
そこに私が感じ取った気持ちを形状化したオブジェクトを加えていった。
それがとてもよくはまり、気に入ってもらえた。
たくさん売れました。
その後、現在に至るまでCDのデザインを手がけさせていただいています。

そんなわけで、
nano/nano graphicsのスタートのピストルを撃ってくれた人と思っています。

昨日、ベストアルバムのジャケット用撮影をおこなった。
今は一児の母となった彼女は、変わらず清々しい。
今回は、写真家さんも大物女流。
何かがおきる予感。
案の定、いままで見た事の無いような
「2011版林原めぐみ」が出来上がっていった。
二十歳前後にも見えそうなかわいさが、大勢のプロフェッショナルの手によって、
丁寧にかつ大胆に紡ぎ出されていく。
最高のデザインで応えたい。あとは私が引き受けます。


さて、私は常々、林原めぐみさんから無限のポテンシャルを感じている。
勝手に。
ここから先は持論。

林原めぐみさんは、
何百人ものキャラクターを演じ分けてきた。
ものすごい種類の豊富な体験を間接的にしている。
演技を自分でする俳優さんではとても無理です。
それは「体」を使う以上、その呪縛のなかで演技をするしかないから。
もちろん、それも素晴らしいことは言うまでもない。

アニメーション における「声」の重要性に興味が出た。
アニメーションと実写の映画を、サイレントにして見比べてみた。
実写の映画は、無音でも演技の空気とか、微妙な表情とか、かなり情報が多い。
よって、ある程度わかる。いや、かなりわかる。

逆にアニメーションは 、、、、わからない。
最近のアニメはクオリティーが高く、口の動きを声に合わせてあったり、
微妙な表情を作り込んでいたり、それは見事な物です。
でも、無音だとわからないのです。
声があるからこそ、その作り込みが生かされている証拠。
声優は映像に頼れないんですね。実は。

つまり実写の吹き替えなんかは比較的楽なのかも。
だからお笑い芸人とかアイドルとかがチャレンジし易いのだろう。


沢山のキャラを演じているという事は、
それ相応の量のスクリプトに接しているわけです。
その結果なのかどうか解らないが、
くだらない話をしているときでも、言葉選びのうまさ、
伝えるイントネーション、間、すべてがいい。
などと思うたびに、アニメの世界におさまっていることが
もったいないなあと思ってしまう。

たとえば、外務大臣になってほしいとか思うのです。
これだけジャパニメーションがウケているし、
普通に声力が強い彼女が外交をやったらと思うと、ちょっと楽しい。
通訳は真面目で一本調子な人がいいね。対比が面白い。

官房長官でもいいかも。
総理官邸からの報告を聞きたい。

綾波レイの声で、事業仕分けなんかしたら、円滑に進むかも。

「声」は大事。
「声」は人を動かせるかも。
「声」は思いを伝えられるかも。
「声」は人を喜ばせられるかも。悲しませてしまうかも。
「ごめんね」といえば「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか?

ニュータイプのインタビューで私と2ショット

2011年4月9日土曜日

ジャスティス・ジャスト・ディス・ケース

『これからの「正義」の話をしよう』
売れましたね。
マイケル・サンデル教授。

「ビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンから富の一部を取り上げ
貧困者に分配するのは正しいのか」
「多くの人を助けるために一人の命を犠牲にすることは正しいのか」
答えの見えない問い。
対話型の授業。
日本人には新鮮でした。

この本では正義に対する3つのアプローチを唱えている。
サンデルさんは3番目を支持している。

1)幸福の最大化という正義。
功利主義的なスタンス。
まさにこれが、
「多くの人を助けるために一人の命を犠牲にする
最大多数の最大幸福こそが正義なのだとすること。」
これは正義と権利を計算上の対象にしていることが問題。

2)自由の尊重という正義。
自由は破綻を招く。
「個人の自由選択こそ正義、思うままに生きる。」
それだけでは社会は成り立たない。

 3)美徳の涵養という正義。
「共通善」を判断する。
たとえば、
現在、東日本大震災のまっただ中ですが、寄付や募金をほとんどの人が行っていると思います。その行為は、「被災者のためなのか」もしくは「自分の価値を上げるためなのか」では、性質が違ってくる。その判断。


「美徳の涵養」、、、、素敵な響きですね。
【美徳】美しい徳。道にかなった行い。
【涵養】水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること。

いい。凄くいい。
これこそが人類の未来を切り開くのではないだろうか?
幼い頃から時間をかけて育まれた人間性は、
どんな有事においても勇敢に発揮されると思う。

仮面の善人は、もろい。

こんな話を聞いたことがある。
宝石商の娘は、本物だけを見せ続けられながら育ちます。
偽物と本物を見分けるために、両方を見比べたりしません。
本物だけ見ていれば、偽物はすぐに解るということ。
ただし、その域に達するには永い時間が必要です。涵養です。
偽物を見てしまうと目が鈍るのです。

いま巷では、
「本物っぽいんだけど本質的に違う。でも、偽物とも呼べない。」
という感じの物や事が多い。
美徳の涵養は簡単じゃないですね。

そんなこんなでいろいろ考えていると、
『サンデル教授の対話術』の装丁依頼が舞い込んできた。
かなり嬉しかった。

こんな本です。(NHK出版)


通常の自分のデザイン手法は、
「まずやりたい事のMAXを提案する」です。
降ってきたお告げに 従う事から始めます。
でも、この本はすでに刊行されている類書たちと比較して、
方向を決めました。
結構いい出来だと思います。
実際売れてるし。

この表紙のサンデルさんの写真、カッコ良すぎ。
このポーズ、出来過ぎ。
これは、
熱心に話している最中に、無意識のうちにでてくるポーズなのか、
生徒にウケるために、カッコいい自分を研究して出てきたポーズなのかでは、
性質が違ってくる。

美徳の涵養 、、、?
共通善の判断 、、、?

2011年4月7日木曜日

スーベニア・フロム・コラボレーション・トーキョー・フラクタル

わたしは美術館が好き。大好き。
これは理屈云々ではなく、脊髄反射のようなどうしようもない衝動。
管理が行き届いていなかったり、企画がつまらなかったり、
そんな美術館でも 無条件に愛せる。
犬が主人に向ける愛情のような類いかな。

私どもの会社は、
展覧会などの仕事をいくつか手がけてきた。
展示デザインや図録デザイン、販売品なども少々。
でも私の「美術館好き」を満たすほどではない。 

ここ2年くらいで、弊社に大きな変化が始まっている。
ある人に出会ってから、美術館に携わる仕事が増えている。
すごく嬉しいのだけれども、
正しくは、結果的に美術館の仕事になっているだけで、
本当に価値を感じているのは楽しいコラボレーション。
素材や目的はなんでもいい。

前述のように美術館愛の強い自分が、
それに携われることよりも、
コラボレーションによる生産の方に喜びを感じているんだから、
かなりのもんです。

学生時代から、誰かと一緒に物を作ろうとすると、
まずうまくいかない。
お互い認め合って決起するのだが、いずれダメになる。
広告賞に出すために、
「救心」の課題をえらび、
ハムスターをモデルにした広告を作ったことがある。
3人で。
内容は秘密。

結局、途中で私は降りた。
私が行動を共にできたのはモデル用に買ったハムスターだけ。
命を終えるまでいい相棒だった。
名前は「サブリナ」。
かわいかった。
高幡不動尊近くの小学校の桜の木の下に眠っています。


そんな私が、コラボレーションを楽しんでいる。
志は一緒でも、もとの畑が違う者どうしだからなのだろうか?
言い合いも、駄目だし合いも、褒め合いも、うまくいっていると思う。
分業のつもりでスタートしても、結局はフラクタル。
意図せず、結果的にコラボレーションになっているところがミソなのかな?

今、ユニット名を考えています。


2011年4月6日水曜日

おおうちは「くじら」だと思って…

浪人中だったかな?
尊敬する先輩から「くじら」のフィギュアをもらった。

“おおうちは「くじら」だと思って 、、、”
 この一言とともに。

何かのお土産って言っていたような気もするし、
誕生日とか、記念日のタイミングでもらったような気もするし、
よく覚えていない。


数回の引っ越しのたびに訪れる断捨離に勝ち残り、
20年近く一緒にいる。

最近ふと見つめながら、
なんで「おおうちはくじら」なのだろうかと考えたりする。
当時は痩せていて、爽やかだったので、外見からくる印象ではないはず(笑)。

ちょっと深読みしてみる。

くじらの食事量はたいへんなもので、
頭数が増えすぎると、魚類を食い尽くす可能性があるらしい。
結果的に自分の食料もなくなるわけだね。

図に乗るといたい目を見るぞ!っていうメッセージだったのかな?
それとも、現在のように太った私を予知して、
食い過ぎ注意と言いたかったのだろうか?

骨とか、髭とか、あぶらとか、
さまざまな道具に利用され、文化推進に貢献した側面を見れば、
くじらと言われることは嬉しい。

 くじらは日本をイメージさせるメタファーであり、
日本芸術のモチーフにも頻繁に登場する。
おめでたい解釈で「おおうちは日本代表」ってことかな?

この歌川国芳の「宮本武蔵と大鯨と鯨涛」なんかを見たら、
外人さんは驚きと感動と同時に 、
「くじら=日本」となってもおかしくない。


ノルウェー、アイスランド、フェロー諸島などは捕鯨推進国なのだが、
シーシェパードの活躍もあって、悪い意味で「くじら=日本」になっている。

これまた微妙な。

まあこの歳になると、余計なことをくよくよと考える。
しばらくはそれで楽しめそう。

先輩には絶対に訊かない。

逆じゃね?part2

「豆腐」と「納豆」

このネーミング、逆じゃね?
文字の意味で考えると逆のほうが合っている気がするのは
私だけか?

でも、
発音の印象は、
「とうふ」のフワフワ感は、納豆にふさわしくない。
逆に、
「なっとう」のネバネバ感は、豆腐にふさわしくない。

これはこのままでいいのかな。

戦い好まば国亡び 戦い忘れなば国危うし

東日本大震災での自衛隊の勇姿。
熱いものを感じ取り、日頃の見方を変えた人も多いのではないだろうか?

自衛隊の存在に意義を唱え活動している人
「殺人兵器」と呼んだ政治家

かれらが窮地に陥ったときにも、
我々は命がけで助けると言っていた。

まあ、そんなに単純な話ではないのですが、、、

自衛隊の幹部候補生を育てる
防衛大学校の卒業祝辞集を中古で手に入れた。




















すばらしい本です。
ブックデザインは佐藤晃一
祝辞を送っている面子も面白い。
吉田茂や小泉信三に混ざって
平山郁夫や盛田昭夫がいる。

ゆっくり読もおっと。

2011年4月5日火曜日

逆じゃね?

エレベーターの扉開閉ボタンによくあるピクト。


一般的には
左が「開」
右が「閉」

記号論的には、三角形は矢印と同意なので、
「とんがり」が方向指示になる。 例外無し。


しかし、パッと見の認識は逆だと思う。

「絵」として捉えた印象は、
どう見ても左がしまって見える。
右は開いて見える。

観音開きの扉が開閉している様子をパース付きで描いているようにも見える。

私はとっさに押す時は間違えます。頻繁に。
おばあさんがかけ込んできたときに、しまらないように「開」を押したつもりが、
閉めてしまうことしばしば。
おばあさんから見れば、私は悪魔です。

ONSUNDAYS

オン・サンデーズは、学生時代憧れだった。

私の出身は多摩美なので八王子近辺下宿生活にあり、
「こんな田舎でデザインなんか学べるか!」などと
若くてアホな発言をすることにより、
腰の重い自分に「足を使って学ぶ」ための自己暗示をおこなっていた。
時間が空くと青山や銀座へ。
そんな中で衝撃だったのがワタリウムの存在。
初めて行ったのが20年前なので、まだ開館間もない頃だったはず。
ルドルフシュタイナーなど、ここではじめて触れたことは多い。
当時の友人との思い出等もたくさん詰っている。

その場所の地下、オン・サンデーズで展示デザインをしている自分が、
なんとなく素敵に思えて褒めてやりたくなった。
この仕事は、
一昨年の『極楽園』という仏像写真集で頑張ったから、
今回の企画編集の安藤さんがアートディレクターに選んでくれた。
さらに言えば、写真家・三好和義さんの仕事を頑張ったから
『極楽園』のアートディレクターに選んでくれた。


本当に皆さんのおかげ。僕は導いてもらっただけ。





さて、展示内容のお話ですが写真本の掲載作品24点の中から16点飾られます。
本のレイアウトは全て同一のフォーマットにして(縦位置の写真も横にするくらいの強引統一)編集コンセプト以外の「意味」を排除しています。
その結果、違う作家の集合体にもかかわらず、より個々が引き立ち、他人との前後関係を肯定することができています。
写真展のオリジナルプリントは作家それぞれのサイズです(フレームは統一)。
本を見た後に展示を、また、その逆、いずれも感動と発見があります。

安藤さんをはじめとする携わった方々全員のアンソロジーになりました。

2011年4月4日月曜日

写真本123456789101112131415161718192021222324

4月5日からオン・サンデーズ で出版記念写真展をやります。
売り場壁の展示ですが、素敵です。
ちなみにこんな本です。
http://www.nanogra.jp/works/24.html
http://book.japandesign.ne.jp/w-book/110330-2.html
http://www.watarium.co.jp/onsundays/html/products/detail.php?product_id=245

以下、DMより(この本の産みの親、企画編集の安藤さん筆)
現代を代表する写真家の作品をつなげることで、
架空の1日を再構成した写真集
『写真本 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24』
(シャシンボン・ニジュウヨンエイチ)
の発売を記念し、写真展を開催いたします。
写真集に収められた作品の中から十数点を展示。
また、期間中には参加作家によるトークショー(無料)も予定しております。
あなたの“1日”を見つけに、ぜひお立ち寄りください。

2011年4月3日日曜日

はじめてみようかな

ブログをはじめてみようかな、と思い立ったが吉日。
気が向いたら書いてみます。
ちなみにヘッドの写真はヒラーキーテブレッソンという写真家さんにTATE modernで撮影していただいたものです。